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【華流時代劇を楽しむ18のお約束】
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「正邪」の対立とは?
元となる世界観の『笑傲江湖』では、正邪両派が対立しています。
邪とされる日月教は、フィクションでは見るからに悪どい衣装を着ていて、悪事をあちこちで働いている説明されます。
あの作品では「みんなわかっていると思うけど、あの邪派だぞ」と話は進んでゆく。
しかし、その理解前提がないと「邪派はそもそも何が悪いのか?」という説明が必要となります。
ゆえに『陳情令』と『魔道祖師』の世界観では、岐山温氏が悪事をテンポよく働いてゆきます。
これならば悪とされても仕方ない。そんな殺戮が続くのです。
けれども、温氏と同族というだけで悪事を働いていない大梵山温氏まで残酷な目に遭わせなくてもよいじゃないか! そう思い、魏無羨は岐山温氏が生き抜くためのコミュニティ作りに励みます。
反乱を起こした人々。邪悪とされた人々……彼らにも生活苦や事情があったのではないか?
そうした視点が中国史では大事です。
『三国志』の世界は、黄巾の乱から始まります。黄色いターバンを巻いた怪しい連中が反乱を起こしたぞ、と、官軍や朝廷目線からすればそうなります。
しかし、彼らのような人々がたちあがった背後には、悪政や生活苦があったはず。そこまで考察する必要があるのです。
『笑傲江湖』原作が発表された時代は、文化大革命の嵐が吹き荒れていました。
元を辿れば同じ仲間が、互いを正しい、悪だと言い張り、命を落とすほどの対立を繰り返している。
愚かなことだ。
江湖(=社会)を笑い飛ばしてやろうじゃないか!
そんな世相への思いが作品にはあるのです。
考え方のちがいを乗り越え、バランスをとることを大事にする。そんな今の世にも通じる世界観と道徳心があります。
お面を被っただけで正体がバレないの?
『陳情令』では、莫玄羽の獻舍(その身を捧げて悪霊を呼び出す)のあと、魏無羨が正体がわからないようにお面を被っています。
ドラマがおもしろいからスルーして進みますけれども、こうツッコミを入れたくはなりませんか?
「いや、あのお面なら正体バレるでしょ? 声や体型でなんとなくわかるんじゃない?」
そう言いたい気持ちはわかります。
しかもあのお面は顔の下半分は見えています。
これも中国の武侠ものにあるお約束で、お面を被ると正体がわからなくなるのです。
「なんだあの謎の存在は……誰だか想像もつかん!」
いや、わかるでしょ!
そう言いたくなるかもしれませんが、こらえてください。
人造皮膚のような謎の皮を被り、別人になりすますこともあります。
「義城編」での薛洋がその術を使っています。
ちなみに魏無羨のモチーフの一人と推察できる『神鵰俠侶』主人公・楊過も、十六年後パートではお面を被ります。
なお、美少女が男装してもバレないというお約束もあります。
魏無羨、酒を求め過ぎじゃない?
魏無羨が復活してすることといえば、ともかく酒を飲むこと。
もっと他にやることがあるんじゃないの?
そう言いたくもなりますが、これも中国の伝統。漢詩では酒を扱ったモノがともかく多い。
「詩仙」とされ、中国を代表する大詩人・李白にはこんな伝説があります。
「李白は酔っ払って船に乗っていて、月を取ろうとして溺死したんだって」
「あら、素敵……」
何が素敵なの?
酔っ払ったおじさんが溺死してそれっていい話なの?
そう言いたくなる気持ちはわかりますが、浮世離れして、現実離れして、死んだかどうかもわからないうちにあの世へ向かうというのは、羨ましがられたのです。
西洋では酒といえば暴力沙汰や中毒と結び付けられるものですが、東洋では楽しい酔っ払いの印象があるともされます。そんなイメージも、中国文学はじめ東洋ならではといえます。
飲んだくれ英国人と安酒ジン闇の歴史~日本のストロングゼロ文学も本質は同じか
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義兄弟を裏切ると報いがある
最終盤、金光瑤が裏切ったあとでも、藍曦臣は義弟に「阿瑤」とやさしく呼びかけます。
義兄弟の誓いは神聖であり、大事です。
『三国志演義』の冒頭は、桃園の誓いから始まります。
劉備、関羽、張飛が義兄弟として生き抜こうと誓い合う。そこから話は始まるのです。
武侠のみならず、中国では疑似家族が重要な役割を果たします。これぞ儒教由来の世界観ともいえます。
裏切らないことを表す言葉もいくつもある。
固い絆で結ばれたのに、嗚呼、裏切るなんて……そういう意味合いも当然出てきます。
裏切っても、裏切られても辛い。それが義兄弟。
悲しい絆がそこにはあるのです。
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