本郷和人東京大学教授

本郷和人の歴史ニュース読み

道明寺の戦いで又兵衛が孤軍奮闘! 東大教授・本郷和人の歴史ニュース読み

日本中世史のトップランナーとして知られる本郷和人・東大史料編纂所教授が、当人より歴史に詳しい(?)という歴女のツッコミ姫との掛け合いで繰り広げる歴史キュレーション(まとめ)。

今週のテーマは【孤軍奮闘の後藤又兵衛道明寺の戦い】です。

 


道明寺に到着してみたら、味方がまったく……

◆豊臣「五人衆」後藤又兵衛の討ち死に報告、秀頼への書き付けが見つかる 京都(産経WEST

岡山県立博物館は17日、徳川家が豊臣家を滅ぼした大坂の陣(1614~15年)で豊臣側の「五人衆」として戦った後藤又兵衛が討ち死にしたことを、配下の武士が豊臣秀頼に報告した書き付けが、京都府内で見つかったと発表した。

himesama姫さまくらたに

「後藤又兵衛が戦死した戦いというと、5月6日の道明寺の戦いね」

本郷くん1

本郷「そうだね。外堀をすべて埋められた大坂方は、城外で戦わざるを得なくなった。幕府軍は河内方面と大和方面から大坂城に迫ったんだけれど、このうち大和方面軍は水野勝成を先鋒とし、総大将は家康の6男の松平忠輝、武将としては忠輝の舅の伊達政宗本多忠勝の嫡男の忠政など総勢34,000あまりの兵で構成されていた」

「その軍勢が河内平野に入ってくるところを、道が狭くなっている地点で待ち受け、叩こうとした。それが道明寺の戦いね。大坂方の武将は?」

本郷「先鋒が後藤又兵衛、後詰めが毛利勝永や真田幸村など。兵力は18,000と言われている。彼らは5日に河内の平野に集結し、同日の夜にその地を出発。次の日の明け方、道明寺に再び集結して、幕府軍を迎え撃とうとしたんだ」

「したんだ、と言うところをみると、その計画はうまくいかなかったの?」

本郷「そうなんだよ。後藤又兵衛が3,000を率いて道明寺に到着してみたら、味方がまったくいない。一方で幕府軍はもう到着している。 そのために、後藤隊は幕府軍の袋だたきにあうわけだ。又兵衛は味方が来るのを待ちながら奮戦したのだけれど、結局は多勢に無勢。伊達勢の銃撃により又兵衛は被弾して重傷を負う。やむなく、配下の武士に首を討たせた、というわけだ」

「どれくらい戦っていたの? それに、味方は来なかったの?」

本郷「戦いが始まったのが午前4時頃で、又兵衛が戦死して後藤隊が崩れたのが正午頃、といわれている。8時間か。ものすごく粘り強く戦ったわけだね。でも、結局援軍は現れなかった。彼の死と前後して大坂方はやっと戦場に到着したんだけれど、『大軍を狭隘の地で待ち受けて叩く』という戦略はすでに破綻していたので、あまりムリをすることなく、大坂勢は真田隊をしんがりとして退却していったんだ。それが午後4時頃と言われている」

「あ、幸村が無双して『関東勢百万と候え、男はひとりもなく候』(「関東武者は百万いても、本当の男子は一人も居ないものだな」)ってあざ笑ったのって・・・」

本郷「そう。この時のことだね。作戦自体は失敗しているんだから、あんまり大きなことは言えないような気もするけれどね」

「いやいやいや。そこで退却した幸村は、次の日に家康の本陣に襲いかかって、日の本一の兵、っていわれるわけでしょう。やっぱり強いのよ。でも、なんで後藤隊だけが突出しちゃったのかしら?」

本郷「うん。そこなんだよ。まあ普通は霧が濃くてどうのこうの、って話になるんだけれどね。又兵衛が幸村に、私はここを死に場所とするから、わざと遅れてきて欲しいとお願いした、とする小説もあった。でも、考えてみると、この時間に、この場所に集合、っていうことを守るのが軍隊の鉄則というか、指揮の第一なんだな。だから、どんな天候であれ、それができなかったということは真田以下は減点、それに比べて後藤は合格、と評価できるかもしれない」

「歩兵は歩くのが商売、っていうアレね。でも、近代の概念をそこにもっていくのはどうかしら?」

本郷「そうだね。できなかったらダメ、というのは問題があるかな。だけど、その逆に、みごとに軍勢を動かして勝利に結びつけた、という例もある。秀吉の中国大返しだよ」

「ああ、あれね。10日で200キロを移動したんだっけ。重いヨロイを着た2万人がやり遂げたんだから、ものすごいことよね。それで食べている武士はまだわかるけれど、数の上では圧倒的に多い足軽身分の人たちが、よく逃げ出さなかったわね」

本郷「うん。士気を高いまま維持したんだろうね。すごいことだな。秀吉はそれで天下を取ったわけだ。近代の軍隊でも、1日20キロが限度みたいだから、よくそんなことができたよね」

「秀吉は賤ヶ岳の戦いでも、強行軍を成し遂げているでしょう?」

本郷「そうなんだ。それに対して、大坂冬の陣の時は、徳川秀忠が江戸から京都まで、1日27キロという猛スピードで進んだ。これには、みんな着いてこられなかったらしい」

「あらら。秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わなかった、というのがトラウマになってたんじゃないの。だから、今度はできるだけ早く、を心がけだのね、きっと。でも、軍勢全体が整然と動けなかったら、しょうがないじゃない」

本郷「うん。ここでもやっぱり、家康に怒られたらしい。まあ、行軍はそれだけ難しい、という話だね。家康は戦いを肌身で知っているけれども、秀忠は実戦経験がないわけだから。急にそれをやれ、しかも何万もの軍勢を動かせといわれても、そりゃあムリだよね」

「そういう意味では、又兵衛はよくやったし、翌日の天王寺の戦いでよく部隊をまとめて家康の本陣に攻撃をかけた幸村もすごいわよね」

本郷「うん。そういうことだと思うよ」


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