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天璋院篤姫

女性 西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

勤王女傑・村岡局(津崎矩子) 篤姫の養母は西郷隆盛と共に動き、そして

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大奥といいますと、女性同士が将軍の寵愛をめぐってドロドロ……そんなイメージがあるかと思います。

確かにその手の駆け引きはありますが、実のところ寵愛よりも“政治権力闘争”が行われていた場合も多いようで。
特に幕末、13代将軍・徳川家定の後継者をめぐる「将軍後嗣問題」に関しては、後に江戸後期の著名な騒動が起きるほど熱い火花が散っておりました。

大奥の女性たちは、男たちの権力闘争に流されるだけではなく、自分自身の政治見解や忠誠心をもって、幕末という難局に立ち向かったのです。

そんな中で「勤王女傑」と称された女性。
それが西郷隆盛篤姫とも関わりが深い、村岡局村岡)です。

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近衛家に出仕 そして篤姫がやってきた

のちに村岡となる津崎矩子(つざきのりこ)は、天明6年(1786年)、京都で誕生。
寛政10年(1798年)から近衛家に出仕することとなりました。

若くしてエリートコースに乗った、キャリアウーマンといったところでしょうか。

聡明な女性だったのでしょう。
彼女は中臈(ちゅうろう・優秀な女官)を経て老女となると「村岡局」を名乗り、近衛忠熙の信頼を得ます。

そして1856年、この主家である近衛家に、薩摩藩の島津家から篤姫がやって来ました。
将軍家定への輿入れ前に、忠熙の養女とされたのです。

もともと忠熙の正室だった島津家出身の郁姫は、既に亡くなっていたため、代わりに村岡が篤姫の養母役に……。京都から江戸の大奥へと向かうこととなりました。

時局は大きく動いていました。
1853年のペリー来航以来、人々は日本の行く末がどうなるのか、固唾を呑んで見守っていたのです。

ときの孝明天皇は大の外国嫌いで、断固たる攘夷派。
天皇に側近くに使える左大臣・近衛家の人々も、その意見に接していました。

村岡とて例外ではありません。
尊皇攘夷のために自分なりにできることは何か。
そんなことを考えながら、江戸に向かったことでしょう。

 

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将軍家の後嗣問題に関わる篤姫の存在

村岡が付き従った篤姫も、ただの御台所として大奥に入ったわけではありません。
将軍家後嗣問題にとって重要な手駒として、その場に臨んでいたのです。

篤姫の夫である将軍家定のあと、将軍家の世継ぎと誰にするか?
幕府内は、一橋派と南紀派に分かれ、バチバチやりあっていたのです。

ざっと陣営を確認しておきますと……。

◆一橋派
一橋徳川家の当主・徳川慶喜(のちの15代将軍)を推す
・前水戸藩主 徳川斉昭
・薩摩藩主 島津斉彬
・越前藩主 松平慶永(春嶽)
・土佐藩主 山内豊信(容堂)

◆南紀派
紀伊藩主の徳川慶福(のちの14代将軍徳川家茂)を推す
・大老 井伊直弼
・会津藩主 松平容保
・大奥

幕末の名だたるメンバーばかりですね。
当時の勤王家は「国難を乗り切るためには英主こそ必要」と考え、一橋派を支持していました。
徳川斉昭は激烈な攘夷論者であり、外国嫌いの孝明天皇を要する勤王家はそこも支持をする理由でした。
ただし、島津斉彬は開国派であり、完全に足並みが揃っていたとは言いきれません。

大奥では、徳川斉昭がその性格や行動ゆえ大変に嫌われており、息子の慶喜もとばっちりを受けるような形で、嫌われていました。
あんな男の息子が将軍なんてとんでもない、というわけですね。

この状況を変えるのが、篤姫とその周辺にいた女性たちに課せられた役目でした。
村岡は西郷隆盛、月照、梅田雲浜、幾島らと連携しながら、大奥内での工作を進めることになるのです。

結果、争いは南紀派の勝利に終わります。
そして、大老・井伊直弼は一橋派の処罰に大なたを振るうのです。

そう、安政5年(1858)から安政6年(1859)にかけて「安政の大獄」です。

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近衛家の清少納言と讃えられ、安政の大獄で捕らえられ

さて、この「安政の大獄」。
かの吉田松陰が処刑されたため、
「幕府(井伊直弼)が将来の人材を殺してしまった」
かのように思われがちですが、その誤解は解いておきたいと思います。

この大獄は、あくまで将軍後嗣問題で対立した一橋派の処断を狙ったものでした。
松陰の場合、その取り調べ過程で参考人として訊問を受けていた際に、老中・間部詮勝の暗殺というテロ計画をうっかり漏らしてしまったのが処罰の原因です。

「参考人程度かと思ったら、とんでもないテロリストもいたものだ」
というわけですね。
幕府はピンポイントで松陰を狙ったわけではありませんし、松陰の暗殺計画が本気だったかどうかも不明です。

幕府VS倒幕派という構図ではなく、あくまで将軍後嗣問題の処理だったということです。

さて、話を村岡に戻します。
多くの処罰者が出た安政の大獄ですが、その中には女性8名も含まれていました。
うち6名は、処罰された者の妻子にあたります。

逆に言えば、女性でありながら本人自身の罪を問われた者が2名いるということです。

 

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近衛家の清少納言と讃えられ、安政の大獄で捕らえられ

安政の大獄で捕らえられた2名の女性。

その一人目は黒澤止幾でした。
徳川斉昭の無実を証明するために朝廷に長歌を献上し、逮捕され、「中追放」処分となりました。

そして二人目が、村岡です。
彼女は止幾とは比べものにならないほど、重要な役割を果たした女性と目されていました。
なにせ大獄で死罪となった梅田雲浜は、村岡を「近衛家の清少納言」と讃え、懇意にしていたほどです。

彼女が近衛家代表として立ち回っていたのでしょう。
大獄の処罰対象となった近衛家の人間は村岡一人でした。

とはいえ、村岡の訊問にあたる者は、あまりよい気分ではなかったでしょう。
村岡は、当時古希(70才)を越えた老女。
近衛家側でも、年老いた村岡の訊問は不憫であるゆえ、別の者でと願いましたが、幕府に却下されてしまいます。

 

村岡の訊問と快適な押込ライフ

村岡は厳しい訊問を受けながら、あくまでシラを切り通しました。
自分は近衛家の取り次ぎに過ぎず、計画や工作の内容は知らない、と。

幕府側としても、彼女がそこまで危険思想を持っているとは考えていなかったでしょう。

ただし、村岡は沈黙を守り通したわけではありませんでした。
彼女の証言を証拠として、主人である近衛忠煕が辞官・落飾という処分を受けたのです。

一方、村岡自身は「押込」30日という処分となりました。
自宅軟禁のような処置ですが、彼女の場合はかなり寛大な扱いです。

その背景には、篤姫の尽力があったとされています。
衣食、入浴も村岡の望むままで、彼女は来客も迎えることができました。
こうして村岡は、悠々自適な押込ライフをエンジョイしたのでした。

押込が終わると放免され、郷里である北嵯峨の「祥鳳山直指庵」で余生を過ごしました。
浄土宗の寺院であり、晩年は「嵯峨の慈母」と称されたとか。

祥鳳山直指庵 photo by 駿遠線/Wikipediaより引用

村岡は、明治6年(1873年)に世を去りました。
享年88。かなりの長寿でした。

天皇家と主家近衛家のために働くうちに、「安政の大獄」に巻き込まれてしまった彼女は、訊問通り、ただ取り次ぎをテキパキとこなしていたのか。それとも大きな志のもとで動いていたのか。その点はよくわかりません。

晩年の穏やかな人物像は、勇ましい呼び名「勤王女傑」とは少々ギャップがある気もしますね。

いずれにせよ、西郷隆盛や篤姫から信頼された女性であったというのは確かです。
幕末というのは、熱い心を持った男たちだけではなく、切れ者の女性も活躍できたのです。

文・小檜山青

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【参考文献】



-女性, 西郷どん(せごどん)特集, 幕末・維新

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