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松尾多勢子/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

伝説の勤王おばちゃん松尾多勢子と足利三代木像梟首事件~久坂玄瑞や岩倉具視に気に入られ

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裸で坂本竜馬の危難を知らせに駆けつけた伝説の楢崎龍とか。
スペンサーライフルで敵を射つ山本八重とか。

幕末維新のヒロインといえば、どうしても若くて生きのいいお姉さんを想像する人が多いかと思います。

しかし幕末は、元気なおばちゃん、おばあちゃんも頑張っていました。

大奥老女の村岡局(津崎矩子)。
あるいは幾島
【関連記事】村岡局(津崎矩子) 幾島

今回紹介したいのが「勤王おばちゃん」と呼びたい松尾多勢子(たせこ)です。

残された写真を見ると、ニコニコとしていて飴玉でもくれそうな、人の良さそうなただのおばちゃんに見えます。
どっこい、彼女は肝の据わった勤王歌人でありました。

 

豪農の家に生まれ、学問をおさめる

老いても意気盛んな歴史上のおじいちゃんいえば、蜀の黄忠、あるいは伊達家の鬼庭左月なんかを思い浮かべたりしますかね。

おばあちゃんでバリバリ意気盛ん、というのはほとんど見かけないかもしれません。

そういう意味でも、大変貴重な存在。
それが松尾多勢子です。

多勢子は文化8年(1811年)、美濃高須藩領・伊那郡の庄屋の家に生まれました。

この伊那郡(長野県飯田市)は、平田篤胤の流れを汲む平田派国学が盛んな土地柄でして。
江戸時代の豪農は、俳諧や文芸を好む者も多く、教養人が多かったのですが、多勢子の父・竹村(北原)常盈もそんな一人です。

彼は娘の多勢子に教育をしっかりと受けさせる、進歩的な人物でした。

多勢子は18才で豪農の夫・松尾元珍に嫁ぎました。
病弱な夫を支え、7人の子を育て終え、50を超えると、夫に願い出て平田派国学を学びます。

世はまさに動乱の時代。
多勢子は平田派国学を熱心に学ぶうちに、復古思想や攘夷思想に染まってゆきました。

何としても、国難のこの時代、京都をこの目で見てみたい――。

彼女の情熱は止まりません。

そして夫の許しを得て、文久2年(1862年)、動乱の京都に向かいます。
多勢子、52才の時のことでした。

現代で考えれば70代ぐらいでもおかしくない年齢でしょう。

 

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憂国の歌詠みおばちゃん

文久2年は激動の年でした。

土佐では坂本龍馬が脱藩し、薩摩からは島津久光が上洛。
その矢先に寺田屋騒動が起こり、京都守護職・松平容保が着任したのもこの年です。

ここで多勢子は人脈作りに励みます。

久坂玄瑞や品川弥二郎、あるいは岩倉具視などとも親交を持つのです。

久坂玄瑞/wikipediaより引用

危険人物がうろうろしている京都で、なぜ普通のおばちゃんがそんな大それたことを出来たのか。
正直、我々の理解を超えてくるのですが、ともかく彼女は長州藩邸や公家の家、さらには宮中にまで出入りして、藩士と親しくなるんですね。

たしかに平田学の人脈があったとはいえ、その行動力には驚かされるばかりです。
しかも表向きは「嫁いだ娘の顔を見に来ました」と装ってアチコチを歩き回るのですから肝っ玉もハンパじゃない。

そして彼女は様々な人と語り合ったのでした。

頼りがいのある「田舎のおかあさん」オーラでも出していたんでしょうか。
彼女に何もかも相談にのる若者もいたそうです。

いや、むしろノーガード戦法ですかね。

周囲から見れば「信州から出てきた歌詠みのおばあさん」に過ぎない。
まさかこのおばちゃんが、熱い尊皇攘夷思想を持っている、なんて誰も思わないわけです。

 

足利将軍の木像から引き抜いた首を賀茂川に晒す

年が明けて文久3年(1863)。
滞在費用はどうしていたのか気になるところですが、ともかく多勢子はまだ京都にいました。

平田学派とつきあい、御所まで出向くようになり、毎日が楽しそうであります。
尊皇攘夷思想を持っていれば、ただの歌詠みのおばちゃんでもここまで顔が利くという、平田学派の交友関係の広さも感じさせます。

しかし、この平田学派が大事件を起こしてしまいます。

足利三代木像梟首事件
(あしかがさんだいもくぞうきょうしゅじけん)です。

徳川家茂徳川慶福)/wikipediaより引用

徳川家茂の上洛にあわせ、足利将軍の木像から引き抜いた首を賀茂川に晒す――というもの。
これには穏健な対話重視路線「言路洞開」を取っていた京都守護職の松平容保も激怒し、路線転換を始めます。

事件の犯人には平田派の者もいました。
当日の多勢子は嵐山で仲間と酒を飲んでおり、アリバイもあったのですが、関係者としてマークされてしまいます。

彼女が平田学派の仲間から事件について聞いていたとしても、おかしくはありません。

危険を感じた多勢子は、長州藩邸に逃げ込みました。
そしてその後、息子が迎えにきて、信州に戻ります。

 

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今度は岩倉家で子女の教育を

慶応3年(1867年)、いったんは田舎に引っ込んだ多勢子でしたが、また上洛してきました。
彼女は岩倉具視の家で家政を取り仕切り、その豊かな学識を生かして子女の教育にもあたるのです。

さらに、戊辰戦争が勃発すると、二人の息子を従軍させました。
まさに勤王の志を持つ女性そのものでした。

明治2年(1869年)。
再び郷里に戻ると、家は財政難で傾いておりました。
そこで多勢子は家業立て直しのために奔走します。

バリバリの尊皇攘夷派おばちゃんが見た明治の世は、実のところ嘆かわしいものでした。

散切り頭に洋装の人々が街を闊歩。
あれほど嫌った西洋の奴隷になったかのようです。

自分たちのしたことは一体何だったのか。
そうため息をつくこともあったとか。

変わりゆく文明開化の世を見つめながら明治27年(1894年)、多勢子は84才という長い人生を終えるのでした。

 

伝説はどこまで本物か?

多勢子は【木像梟首事件】の際に、男装して仲間を助け、証拠書類を焼き捨てたとされます。
また、長州藩に紛れ込んだスパイを問い詰め、切腹に追い込んだなんて逸話も。

そして彼女最大の伝説は、岩倉具視の命を救ったというものです。

岩倉具視/wikipediaより引用

隠棲している岩倉のもとに「信州の歌詠みばあさん」として近づき、その志を確認。

岩倉暗殺を企む者に
「彼は勤王の志を持つ」
と伝え、計画を未然に防いだ、というものです。

彼女に関してもっとパンチのある話を盛りたいと考えた人が、スパイ映画さながらの活躍を描いたのでしょう。

こうした話を盛らなくとも、多勢子は驚異的な女性であったことは確かでしょう。
あの時代に女性でありながら学問をおさめ、久坂玄瑞や品川弥二郎とも交流があり、岩倉具視にお信頼を得たのですから。

思い立ったらやってみる行動力と、熱い志を兼ね備えた多勢子。
幕末に生きた熱い女性の一人であったことは、間違いありません。

文:小檜山青




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【参考文献】
女たちの幕末京都』辻ミチ子
国史大辞典

 

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