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横井小楠/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

名無き思想家・横井小楠(よこいしょうなん)松平春嶽や岩倉具視に見込まれたその才とは?

更新日:

ときは明治2年(1869年)。
明治天皇皇后の侍読(家庭教師)だった才女・若江薫子(わかえ にえこ)は、あるニュースに飛び上がって喜びました。

新政府参与・横井小楠が暗殺された――。

彼女はこんな風に思っていたのです。

「国学を修めながら、開国を唱えたあのような奸臣が殺されたとは、めでたい!」

薫子のような攘夷思想の持ち主がその死を喜んだという横井小楠ですが、実際は極めて優秀な人物であり、彼がもし明治政府にいたのなら、もっと違った日本が出来ていたに違いない。
岩倉具視もそう期待して登用した人物だったのです。

一体、どのような方だったのでしょうか。

 

熊本藩に生まれた秀才

横井は、幕末から明治にかけて活躍した人物としては、年長の部類に入ります。

生まれは文化6年(1809年)。
肥後藩士・横井時直と母・かずの次男として、熊本城下内坪井町(熊本市)に誕生しました。

諱は時存(ときあり)で、小楠は号です。

彼を引き立てた福井藩の松平春嶽は文政11年(1828年)生まれですから、親子ほどの年齢差があったことになります。

横井は若い頃から学業優秀であり、主な経歴はざっと以下の通り。

文化13年(1816年)、8歳で藩校・時習館に入校後
天保4年(1833年)、居寮生となる
天保7年(1836年)の講堂世話役
天保8年(1837年)に時習館居寮長(塾長)になる
天保10年(1839年)、江戸遊学。幕臣・川路聖謨、水戸藩士・藤田東湖と校友
天保11年(1840年)、酒の席で失態を犯し、帰国禁足処分に

さすがに、9才にして「明倫館」の教師になった吉田松陰には勝てませんが、それでもかなりの秀才であったことがご理解いただけるでしょう。

なお、ちょっと目を引く【酒席での失態】ですが、酒を飲みすぎてつい気が大きくなり、辛辣な政治批判をしたこととされています。

器物損壊とか、暴力ではなく、あくまで失言ですね。
今なら炎上ぐらいでしょうか。

彼自身も酒癖の悪さは自覚しており、藩の処分に不満どころか、むしろ当然だと受け止めたようです。
ともかく横井にとっての江戸遊学は、多くの有望者と知り合う絶好の機会でありました。

 

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「肥後実学党」のリーダー

帰国した横井は、藩の禁足処分がとけると、政治改革への志を強めました。

天保14年(1843年)、志を同じくする長岡監物・下津休也・荻昌国・元田永孚らとともに、『近思録』等の講学をスタート。
『近思録』といえば、大久保利通有馬新七らで知られる薩摩藩の「精忠組」も、このテキストを読むこところから始まっています。

【関連記事】精忠組

横井らの学習会は、藩校・時習館のあり方に異議を唱えるものでした。
幕末までまだ時間がありますが、早熟で志のある横井は、このままではいけないのだという志を抱いていたのです。

彼らが規範としたのは、李氏朝鮮の儒学者・李滉(イ ファン)です。

李氏朝鮮の儒学者である李滉の像/photo by Integral wikipediaより引用

真実の朱子学(=実学)を追究する彼らは、やがて「実学党」と呼ばれるようになります。

同時に横井は私塾で学問を教え始め、その門下生第一号が水俣の惣庄屋の子・徳富一敬でした。

この徳富の二人の子が、徳富蘇峰と徳富蘆花です。
明治に活躍する秀才兄弟の父は、横井の弟子だったんですね。

「肥後実学党」を率いる横井の名声は、藩の枠を越えて広がり始めました。

それは、ある名君の耳にも届くのでした。

 

鎖国か? 開国か? そんな二元論では駄目だ!

嘉永2年(1849年)、福井藩士・三寺三作は、横井の元で学問を習いました。
彼が横井を絶賛したことにより、その名声は福井藩にも伝わります。

折しも当時の福井藩主は、高潔な名君・松平春嶽(松平慶永)です。
藩政を立て直すため春嶽は、橋本左内ら優秀な人材を身分に関係なく登用しておりました。

松平春嶽(松平慶永)/wikipediaより引用

【関連記事】松平慶永(松平春嶽) 橋本左内

福井藩の求めに応じて嘉永5年(1852年)、横井は『学校問答書』を、翌嘉永6年(1853年)には『文武一途之説』を書いて送りました。
そこには、こう記されておりました。

「相手の強弱ではなく、要求の当否で応対を決めるべきです」

外国船が来港する中、横井の論旨はスッキリとしていて、かつ正論でもありました。
外国人だから野蛮と決めつけずに、相手が礼儀正しいか、道理にかなっているかを判断、要求を受け入れるか決めるべきであり、鎖国か開国かという二元論ではならない。
そう説いているのです。

「異人はぶった切る!」
出身地、思想、そういったものを問わず、日本人の大半がそういきり立っていた時代。
ここまで冷静かつ儒教的な理想像を追及していた人物は、横井ぐらいのものでしょう。

その先進性において、この時点で彼に比肩し得たのは、佐久間象山クラスでないと無理だと思われます。

安政元年(1854年)、横井は兄の死によって家を継ぎましたが、肥後藩では彼を持て余していました。

代わりに救いの手を伸ばしたのが、松平春嶽です。
安政5年(1858年)、横井の思想に心服していた春嶽は、賓客であり師匠であるとして、横井を招いたのでした。

横井は早速、藩政改革に取り組みます。

絹・生糸の増産に取り組み、それを藩が長崎で販売。
利益を農民に還元するという富国策は、絶大な効果と利益をあげました。

仁政を求める春嶽にとって、まさしく横井こそ、求め続けた人材であったのです。
横井は、その成果を『国是三論』にまとめています。

 

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松平春嶽のブレーンとして

以降、横井の浮沈は主君である春嶽と一致することになります。

「将軍継嗣問題」で一橋派の一角を担った春嶽は、「安政の大獄」で処分を受けて、政治の舞台から姿を消します。

【関連記事】井伊直弼

春嶽の政治復帰は文久2年(1862年)、島津久光の挙兵上洛に端を発した政治改革からです。
幕府の政事総裁職に就任。横井はそのブレーンとして、江戸でその補佐にあたります。

そして横井は幕政改革に乗り出し、時代錯誤な参勤交代制の事実上の廃止など、積極的に発言しました。

しかし、横井の不幸は、春嶽ほど彼を理解できる人間がいなかったということです。

かつて失言で禁足処分を受けたほど舌鋒鋭く、かつ先進的である横井は、敵を作りやすい性質でもありました。横井は何度か上洛を申し出ているのですが、春嶽はその身を案じて却下しています。

そしてこの年の暮れ、ついに横井は宴会の席で刺客に襲撃されてしまいます。

現代人ならば、これはもう襲った側が完全に悪い。
しかし、当時は武士の時代。

運悪く、横井は大小を持っておらず、犯行現場をいったん離れていました。
襲われた上に同行者を置いて逃げたことが不適切であるとして、熊本に呼び出された挙げ句、士籍剥奪処分を受けてしまうのです。

福井藩は弁護したものの、熊本藩では切腹を減じただけで、厳しい処分を下したのでした。

 

東洋の仁政と西洋の技術――を日本の未来に

横井は世捨て人として、熊本郊外沼山津にある「四時軒」に暮らしました。

勝海舟や大久保一翁(忠寛)と文通する、訪問した坂本龍馬と面談するといった程度しか、この激動の幕末と接触することはできません。
それでも彼は、幕末の論壇において、一定の意見を持っていました。

「四時軒」が保存されている横井小楠記念館/photo by hyolee2 wikipediaより引用

横井の理想は、他の誰とも違う独自のものでした。
自らが追及してきた儒教が根底にある【仁政】により、武家政権を否定し、近代化思想を取り入れてゆくというものです。

この思想は慶応2年(1866年)、兄の遺児である左平太・太平をアメリカに留学させる際の言葉にも現れています。

「堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くさば、なんぞ富国に止まらん、なんぞ強兵に止まらん、大義を四海に布かんのみ」
(堯舜孔子の道(=儒教思想に基づく仁政)を明らかにし、西洋の技術を学び尽くせば、強兵だけに留まらず、大義を世界中に示すことができるだろう)

東洋の仁政と西洋の技術――それこそ日本の未来を導く両輪であると、彼は信じていたのです。

横井の思想が実現していたらば、日本の近代化はもっと別の形になったことでしょう。
右にならえと西洋流を真似するのではなく、東洋に根付いた仁政と西洋由来の化学や思想が結びついた、そんな世の中となったはずです。

もしも横井が、こんなことにならなければ……。
常に春嶽の側にいれば、幕末の政治は違ったものになったかもしれません。

春嶽は聡明でしたが、自分でも自覚していたように、優秀なブレーンの意見を取り入れて生かすタイプの人物でした。
自ら動く島津久光とは正反対といえましょう。

橋本左内を「安政の大獄」で失い、横井小楠を思わぬトラブルで失った春嶽は、パフォーマンスが落ちていたと考えてもおかしくはないのです。

福井藩は将軍継嗣問題以来、幕末の政局に関わっています。
それでも維新に絡むことができず、影が薄いのは、様々な悪条件が重なったからなのでした。

 

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あまりに理不尽な刺客の刃に斃れ

慶応3年(1867年)末、維新前夜。
熊本藩に、横井を新政府で登用したいという申し出がありました。

名声が高く能力も高い人物を世捨て人にしておくのは惜しい――と、岩倉具視が確信していたのです。
これを機に名誉回復も行われ、横井は世に出る機会を取り戻したのです。

そして翌年には、新政府参与として登用されるのですが……活躍の機会は永遠に失われてしまいます。

明治2年(1869年)正月5日。
横井の乗った駕籠が、刺客に襲撃されました。
彼らの手にかかり、横井は首を打たれました。享年61。

横井小楠殉節地(京都市中京区寺町丸太町下る東側)/photo by mariemon wikipediaより引用

その襲撃の根拠は不明瞭で、横井が西洋思想やキリスト教に国を売るというものでした。
誰よりも強く、東洋の仁政と西洋の技術の融合を目指していた横井にとって、あまりに理不尽な言いがかりです。

彼の死後、その理想は潰えました。

日本は「脱亜入欧」西洋流の植民地主義や富国強兵策を採用し、東洋の儒教的仁政からは距離を置きます。
横井がそんな世の中を見ずに世を去ったのは、不幸中の幸いだったかもしれません。

いや、もしも日本が、横井の目指した理想のもとで明治を歩んでいたら?

きっと別の歴史があったことでしょう。
歴史に”if”は禁句です。
それでも、横井小楠の理想が実現していたら。

そう考えずには、いられません。

横井小楠之墓(京都市左京区・南禅寺天授庵)/photo by mariemon wikipediaより引用




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文:小檜山青

【参考文献】
国史大辞典
横井小楠 (人物叢書)

 



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