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【横井小楠】
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東洋の仁政と西洋の技術――を日本の未来に
横井小楠は世捨て人として、熊本郊外沼山津にある「四時軒」に暮らしました。
勝海舟や大久保一翁(忠寛)と文通する、訪問した坂本龍馬と面談するといった程度しか、この激動の幕末と接触することはできません。
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それでも彼は、幕末の論壇において、一定の意見を持っていました。
横井の理想は、他の誰とも違う独自のものでした。
自らが追及してきた儒教が根底にある【仁政】により、武家政権を否定し、近代化思想を取り入れてゆくというものです。
この思想は慶応2年(1866年)、兄の遺児である左平太・太平をアメリカに留学させる際の言葉にも現れています。
「堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くさば、なんぞ富国に止まらん、なんぞ強兵に止まらん、大義を四海に布かんのみ」
(堯舜孔子の道(=儒教思想に基づく仁政)を明らかにし、西洋の技術を学び尽くせば、強兵だけに留まらず、大義を世界中に示すことができるだろう)
東洋の仁政と西洋の技術――それこそ日本の未来を導く両輪であると、彼は信じていたのです。
横井の思想が実現していたらば、日本の近代化はもっと別の形になったことでしょう。
右にならえと西洋流を真似するのではなく、東洋に根付いた仁政と西洋由来の化学や思想が結びついた、そんな世の中となったはずです。
もしも横井が、こんなことにならなければ……。
常に春嶽の側にいれば、幕末の政治は違ったものになったかもしれません。
春嶽は聡明でしたが、自分でも自覚していたように、優秀なブレーンの意見を取り入れて生かすタイプの人物でした。
自ら動く島津久光とは正反対といえましょう。
橋本左内を「安政の大獄」で失い、横井小楠を思わぬトラブルで失った春嶽は、パフォーマンスが落ちていたと考えてもおかしくはないのです。
福井藩は将軍継嗣問題以来、幕末の政局に関わっています。
それでも維新に絡むことができず、影が薄いのは、様々な悪条件が重なったからなのでした。
あまりに理不尽な刺客の刃に斃れ
慶応3年(1867年)末、維新前夜。
熊本藩に、横井小楠を新政府で登用したいという申し出がありました。
名声が高く能力も高い人物を世捨て人にしておくのは惜しい――と、岩倉具視が確信していたのです。
これを機に名誉回復も行われ、横井は世に出る機会を取り戻したのです。
そして翌年には、新政府参与として登用されるのですが……活躍の機会は永遠に失われてしまいます。
明治2年(1869年)正月5日。
横井の乗った駕籠が、刺客に襲撃されました。
彼らの手にかかり、横井は首を打たれました。
享年61。
その襲撃の根拠は不明瞭で、横井が「西洋思想やキリスト教に国を売る」というものでした。
誰よりも強く、東洋の仁政と西洋の技術の融合を目指していた横井にとって、あまりに理不尽な言いがかりです。
彼の死後、その理想は潰えました。
日本は「脱亜入欧」西洋流の植民地主義や富国強兵策を採用し、東洋の儒教的仁政からは距離を置きます。
横井がそんな世の中を見ずに世を去ったのは、不幸中の幸いだったかもしれません。
いや、もしも日本が、横井の目指した理想のもとで明治を歩んでいたら?
きっと別の歴史があったことでしょう。
歴史に”if”は禁句です。
それでも、横井小楠の理想が実現していたら。
そう考えずには、いられません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
国史大辞典
圭室諦成『横井小楠 (人物叢書) 吉川弘文館』(→amazon)