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赤松小三郎/wikipediaより引用

幕末・維新

赤松小三郎の名はもっと広まるべき!人斬り半次郎に殺された幕末の“知られざる英雄”

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先進的な建言書

慶応3年(1867年)、赤松は誤訳のあった『英国歩兵練法』を改訂し、新訳で出版。
しかし彼は、語学や兵学、数学だけの人物ではありません。

西洋の民主主義制度にも通じておりました。
この頃から、新たな世を作るべく上院両院制度を含めた、先進的な建言書を松平春嶽島津久光らに提出し始めるのです。

時折しも維新前夜の慶応3年(1867年)。
6月下旬から同年9月上旬にかけて、薩摩藩と土佐藩では「薩土盟約」が結ばれていました。

議員制度や民主主義を踏まえ、ソフトランディングで政権交代を目指した土佐に対し、武力倒幕も辞さないようになった薩摩。
両者の盟約は破綻したとされております。

土佐の案は、坂本龍馬の考えを反映し、山内容堂を説得したものとされています。

坂本龍馬/wikipediaより引用

彼の「船中八策」は実在が不明であり、選挙制度についての記載はありません。

しかし!
龍馬以上にしっかりと、こうした案を提言していたのが、実は赤松なのでした

「龍馬に劣らぬ」
という紹介が赤松にはつきものですが、正確には「龍馬を超える」と言えるのではないでしょうか。
実は後世、坂本龍馬顕彰の際に、赤松の事績が反映されるなど、フィクションで描かれる龍馬像には、赤松も反映されているかもしれません。

そうなりますと、通説に変化が見えてきます。

薩摩藩が抱えていた赤松の提案ならば、薩摩藩も同じような案を受け取っていたということになります。

しかし、結果として赤松の提案は実りません。
薩摩藩と、その同盟相手である長州藩は、武力倒幕に進むのです。

それが「下策」であったことは、当時から認識されておりました。

【関連記事】武力倒幕は下策だった

 

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赤松小三郎暗殺事件

倒幕を目指すようになった京都の薩摩藩上層部。

これに対し、赤松の考えは「幕薩一和」です。
あくまで幕府や佐幕藩と協力し、新たな国作りを目指しておりました。

「薩土盟約」を元に戻し、内戦を回避する――そのため、西郷隆盛小松帯刀、幕臣の永井尚志(ながい なおゆき)らと会談を重ねるのです。
彼の危険を察知した上田藩が呼び戻そうとするのも、断り続けました。

永井尚志/wikipediaより引用

理想に燃える赤松は、実際、その身に危険が迫っておりました。

いくら恩義があるとはいえ、ひとたび戦争を起こす考えに取り憑かれた薩摩藩上層部にとって、ただの邪魔者になってしまったのです。

慶応3年(1867年)8月。
赤松は、西郷が長州藩と取り付けた挙兵計画を知り、もはや限界だと悟ります。

そして上田に帰ろうとしたところを、小松により止められます。
小松には、赤松が帰国しようとすればどうなるか、わかっていたのかもしれません。しかし……。

同年9月3日、帰国準備を進めていた赤松は、京都で殺害されます。

三条大橋には、攘夷派が書きそうな罪状が結びつけられておりました。
【この者は西洋かぶれであり、皇国の意図に背き、天下を動揺させた不届き者であるため天誅を加えた――】

暗殺犯は?
長いこと不明とされてましたが、大正8年(1919年)、薩摩藩士であった有馬藤太郎が、中村半次郎桐野利秋)の犯行であったと語ります。

そして昭和42年(1972年)。
半次郎の日記である『京在日記』の散逸部分が発見され、決定的となりました。

以来この事件は、「殺す」と口走った短気な中村の単独犯行とされてきました。
しかし、本当にそうだったのでしょうか。

 

赤松暗殺事件の謎

確かに実行犯は中村だったのでしょう。

しかし、その背後に黒幕はいなかったのか?

赤松の死には謎が多く、いくつか疑惑を挙げさせていただきます。

薩摩藩ぐるみで隠蔽工作

中村は、赤松の殺害後、薩摩藩邸から彼に関する資料をことごとく焼却しました。

引っかかりますね。
短気な男の突発的な行動にしては、なかなか手が込んでいる。
これほどの重要人物を殺しておいて、お咎めがないというのも不自然でしょう。

このあと赤松の遺族には、弔慰金三百両が贈られ、薩摩藩士には厳しい箝口令が敷かれました。
あれほど世話になったのに、忘れるよう仕向けられたのです

中村だけが犯人ではない?

中村は単独犯ではありません。
田代五郎左衛門も殺害に立ち会っており、見張り役として3名の薩摩藩士が現場にいました。

同行していた薩摩藩士・野津七次と別れ、単独となったところで赤松は殺害されたのです。
突発的な行動とは思えない計画性が感じられます

薩摩藩内には武力倒幕反対派も多かった

赤松の死に、動揺した薩摩藩士も多かったことでしょう。

それというのも、薩摩藩士といえども、武力倒幕で一致していたわけではありません。
国父こと島津久光も了承しておらず、国元では反対派が多かったですし、在京でも、西郷、大久保一蔵大久保利通)、小松といった者以外には賛同しない者もおりました。

そうした反対派につきつけられたのが、思想的のリードしていた赤松の死というわけです。
これ以上武力倒幕に反対したら、いけんなうかわかっとうな――そう示すのに、これ以上効果的なこともありません。

大久保一蔵の不審な行動

赤松は死を迎えたその日、大久保主催の送別宴に出ておりました。

ここで中村は、
「敵軍に先生(赤松のこと)がいうと、本気で戦うこっができもはん」
と、師弟の縁を切ると赤松に告げているのです。

しかも、実は暗殺に先んじて、大久保は赤松の身辺調査を命じておりました。

中村の後悔と愚痴

中村は後年、山県有朋に対して明治維新が早く成り立てば「赤松を殺すこともなかったのに……」と愚痴を言っていたと伝わります。

なんせ彼は、赤松殺害を気に病み、悪夢にうなされていたというほど。

しかしなぜ、長州の山県に愚痴をこぼすことができたのか?
長州派も犯行に関与していたからこそ、その相手に選んだとも考えられます。

品川弥二郎の関与

武力倒幕に乗り気であり、薩摩を急かしていた品川弥二郎。
彼の記録には、赤松暗殺がらみの記述があります。

何としても武力倒幕を遂げたい長州にとって、赤松は邪魔者でした。

短気な人斬りによる突発的な暗殺事件――かつて、この事件はそう考えられていました。

【関連記事】桐野利秋(中村半次郎)

しかし、きな臭さがつきまといます。

武力倒幕を成し遂げるため、その邪魔者として殺された。
そう考えた方がスッキリする状況が多い。

例えば赤松のあとに暗殺された坂本龍馬と中岡慎太郎に関しては、薩摩藩による暗殺説は現在否定されております。

しかし、赤松に関しては否定できません。
犯人が薩摩藩士の中村という時点で黒なのですが、背後に陰謀を感じさせるのです。

 

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赤松の弟子たち、明治時代に活躍

赤松の死に関して、薩摩藩士は箝口令を敷かれております。
しかし、弟子たちが師匠を忘れたことはありませんでした。

赤松と薩摩藩を結びつけた野津七次は、道貫と改名し、維新後は陸軍に入ります。

野津道貫/wikipediaより引用

そして明治10年(1877年)、西南戦争に政府軍第2旅団参謀長として出征。
兄の鎮雄とともに、「田原坂の戦い」で指揮を執りました。

この戦いで、西郷軍を指揮していた篠原国幹は、赤松の掛け軸を背負っていたとも伝わります。

篠原国幹/wikipediaより引用

西郷が赤松の死に関与していたかどうかは、ハッキリとはしません。
ただ、西郷軍には赤松を手に掛けた中村半次郎が、桐野利秋と名を変えて従軍しておりました。

「田原坂の戦い」とは、赤松の弟子同士の戦いであり、野津にとっては仇討ちとも言えたのです。

野津は、師の仇討ちを狙っていました。
戊辰戦争も内戦であるとして、乗り気ではありませんでした。彼の心中には、赤松の教えがあったのでしょう。

そんな野津にとって、仇討ちの機会が、10年の歳月を経て訪れたのです。
彼にとって同郷の薩摩隼人を討つ戦いは苦しいもの。しかし、仇討ちが達成出来たとも言えます。

野津は、赤松仕込みのイギリス式兵学を忘れることはありませんでした。
その優れた指揮能力は、日清・日露という戦争で発揮され、陸軍元帥にまでのぼりつめています。

また、門人で大垣藩士だった可兒春琳(かに しゅんりん)も、日清・日露戦争で活躍し、陸軍少将へと出世を果たしました。

赤松の弟子が輝いたのは、陸だけではありません。

日露戦争に勝利した翌年の明治39年(1906年)。
海軍の英雄・東郷平八郎と上村彦之丞(かみむらひこのじょう)は、上田を訪れ赤松の墓参りを行いました。

東郷平八郎/wikipediaより引用

【日露戦争で日本がロシアに勝てたのも、赤松先生の薫陶があってこそ――】

日本海海戦の英雄である東郷平八郎は、そう回顧。そして大正13年(1924年)、赤松が従五位を追贈されると、彼は顕彰碑に揮毫しました。

【関連記事】日本海海戦

そんな東郷ですら、赤松の暗殺については生涯語ることはありませんでした。
上田の人から語るように促されても、口をつぐみ続けたのです。

死後、関係書類が焼却され、箝口令が敷かれた赤松小三郎。
それでも教えを受けた弟子たちは、師匠を尊敬し続け、明治時代に活躍を遂げました。

これほどの英傑の存在が謎に包まれたまま、その事績が時に坂本龍馬伝に組み込まれてしまっていることは、惜しまれることです。
今後、研究が進み、彼の事績が明らかになることを願ってなりません。




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文:小檜山青

【参考文献】
赤松小三郎ともう一つの明治維新――テロに葬られた立憲主義の夢』関良基
薩摩秘話』五代夏夫

 



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