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【赤松小三郎】
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赤松小三郎暗殺事件
倒幕を目指すようになった京都の薩摩藩上層部。
これに対し、赤松の考えは「幕薩一和」です。
あくまで幕府や佐幕藩と協力し、新たな国作りを目指しておりました。
「薩土盟約」を元に戻し、内戦を回避する――そのため、西郷隆盛や小松帯刀、幕臣の永井尚志(ながい なおゆき)らと会談を重ねるのです。
彼の危険を察知した上田藩が呼び戻そうとするのも、断り続けました。
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理想に燃える赤松は、実際、その身に危険が迫っておりました。
いくら恩義があるとはいえ、ひとたび戦争を起こす考えに取り憑かれた薩摩藩上層部にとって、ただの邪魔者になってしまったのです。
そして慶応3年(1867年)8月。赤松は、西郷が長州藩と取り付けた挙兵計画を知り、もはや限界だと悟ります。
そして上田に帰ろうとしたところを、小松により止められます。
小松には、赤松が帰国しようとすればどうなるか、わかっていたのかもしれません。しかし……。
同年9月3日、帰国準備を進めていた赤松は、京都で殺害されます。
三条大橋には、攘夷派が書きそうな罪状が結びつけられておりました。
【この者は西洋かぶれであり、皇国の意図に背き、天下を動揺させた不届き者であるため天誅を加えた――】
暗殺犯は?
長いこと不明とされてましたが、大正8年(1919年)、薩摩藩士であった有馬藤太郎が、中村半次郎(桐野利秋)の犯行であったと語ります。
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昭和42年(1972年)。
半次郎の日記である『京在日記』の散逸部分が発見され、決定的となりました。
以来この事件は、「殺す」と口走った短気な中村の単独犯行とされてきました。
しかし、本当にそうだったのでしょうか。
赤松暗殺事件の謎
確かに実行犯は中村だったのでしょう。
しかし、その背後に黒幕はいなかったのか?
赤松の死には謎が多く、いくつか疑惑を挙げさせていただきます。
薩摩藩ぐるみで隠蔽工作
中村は、赤松の殺害後、薩摩藩邸から彼に関する資料をことごとく焼却しました。
引っかかりますね。
短気な男の突発的な行動にしては、なかなか手が込んでいる。
これほどの重要人物を殺しておいて、お咎めがないというのも不自然でしょう。
このあと赤松の遺族には、弔慰金三百両が贈られ、薩摩藩士には厳しい箝口令が敷かれました。
あれほど世話になったのに、忘れるよう仕向けられたのです
中村だけが犯人ではない?
中村は単独犯ではありません。
田代五郎左衛門も殺害に立ち会っており、見張り役として3名の薩摩藩士が現場にいました。
同行していた薩摩藩士・野津七次と別れ、単独となったところで赤松は殺害されたのです。
突発的な行動とは思えない計画性が感じられます
薩摩藩内には武力倒幕反対派も多かった
赤松の死に、動揺した薩摩藩士も多かったことでしょう。
それというのも、薩摩藩士といえども、武力倒幕で一致していたわけではありません。
国父こと島津久光も了承しておらず、国元では反対派が多かったですし、在京でも、西郷、大久保一蔵(大久保利通)、小松といった者以外には賛同しない者もおりました。
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そうした反対派につきつけられたのが、思想的のリードしていた赤松の死というわけです。
これ以上武力倒幕に反対したら、いけんなうかわかっとうな――そう示すのに、これ以上効果的なこともありません。
大久保一蔵の不審な行動
赤松は死を迎えたその日、大久保主催の送別宴に出ておりました。
ここで中村は「敵軍に先生(赤松のこと)がいうと、本気で戦うこっができもはん」と、師弟の縁を切ると赤松に告げているのです。
しかも、実は暗殺に先んじて、大久保は赤松の身辺調査を命じておりました。
中村の後悔と愚痴
中村は後年、山県有朋に対して明治維新が早く成り立てば「赤松を殺すこともなかったのに……」と愚痴を言っていたと伝わります。
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なんせ彼は、赤松殺害を気に病み、悪夢にうなされていたというほど。
しかしなぜ、長州の山県に愚痴をこぼすことができたのか?
長州派も犯行に関与していたからこそ、その相手に選んだとも考えられます。
品川弥二郎の関与
武力倒幕に乗り気であり、薩摩を急かしていた品川弥二郎。
彼の記録には、赤松暗殺がらみの記述があります。
何としても武力倒幕を遂げたい長州にとって、赤松は邪魔者でした。
短気な人斬りによる突発的な暗殺事件――かつて、この事件はそう考えられていました。
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しかし、きな臭さがつきまといます。
武力倒幕を成し遂げるため、その邪魔者として殺された――そう考えた方がスッキリする状況が多い。
例えば赤松のあとに暗殺された坂本龍馬と中岡慎太郎に関しては、薩摩藩による暗殺説は現在否定されております。
しかし、赤松に関しては否定できません。
犯人が薩摩藩士の中村という時点で黒なのですが、背後に陰謀を感じさせるのです。
赤松の弟子たち、明治時代に活躍
赤松の死に関して、薩摩藩士は箝口令を敷かれております。
しかし、弟子たちが師匠を忘れたことはありませんでした。
赤松と薩摩藩を結びつけた野津七次は、道貫と改名し、維新後は陸軍に入ります。
そして明治10年(1877年)、西南戦争に政府軍第2旅団参謀長として出征。
兄の鎮雄とともに【田原坂の戦い】で指揮を執りました。
この戦いで、西郷軍を指揮していた篠原国幹は、赤松の掛け軸を背負っていたとも伝わります。
西郷が赤松の死に関与していたかどうかは、ハッキリとはしません。
ただ、西郷軍には赤松を手に掛けた中村半次郎が、桐野利秋と名を変えて従軍しておりました。
【田原坂の戦い】とは、赤松の弟子同士の戦いであり、野津にとっては仇討ちとも言えたのです。
野津は、師の仇討ちを狙っていました。
戊辰戦争も内戦であるとして、乗り気ではありませんでした。彼の心中には、赤松の教えがあったのでしょう。
そんな野津にとって、仇討ちの機会が、10年の歳月を経て訪れたのです。
彼にとって同郷の薩摩隼人を討つ戦いは苦しいもの。しかし、仇討ちが達成出来たとも言えます。
野津は、赤松仕込みのイギリス式兵学を忘れることはありませんでした。
その優れた指揮能力は、日清・日露という戦争で発揮され、陸軍元帥にまでのぼりつめています。
また、門人で大垣藩士だった可兒春琳(かに しゅんりん)も、日清・日露戦争で活躍し、陸軍少将へと出世を果たしました。
赤松の弟子が輝いたのは、陸だけではありません。
日露戦争に勝利した翌年の明治39年(1906年)。
海軍の英雄・東郷平八郎と上村彦之丞(かみむらひこのじょう)は、上田を訪れ赤松の墓参りを行いました。
【日露戦争で日本がロシアに勝てたのも、赤松先生の薫陶があってこそ――】
日本海海戦の英雄である東郷平八郎は、そう回顧。そして大正13年(1924年)、赤松が従五位を追贈されると、彼は顕彰碑に揮毫しました。
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そんな東郷ですら、赤松の暗殺については生涯語ることはありませんでした。
上田の人から語るように促されても、口をつぐみ続けたのです。
★
死後、関係書類が焼却され、箝口令が敷かれた赤松小三郎。
それでも教えを受けた弟子たちは、師匠を尊敬し続け、明治時代に活躍を遂げました。
これほどの英傑の存在が謎に包まれたまま、その事績が時に坂本龍馬伝に組み込まれてしまっていることは、惜しまれることです。
今後、研究が進み、彼の事績が明らかになることを願ってなりません。
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文・小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
関良基 『赤松小三郎ともう一つの明治維新――テロに葬られた立憲主義の夢』(→amazon)
五代夏夫『薩摩秘話』(→amazon)