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【赤松小三郎】
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『英国歩兵練法』を翻訳出版
失意の日々を送る赤松。
そんな中で得られるものがなかったわけではありません。
文久3年(1863年)。
松代藩士の娘・白川たかと結婚した赤松は、妻の実家・松代を訪れました。
ここで、松代藩士の佐久間象山と交流を結んだのです。
元治元年(1864年)。
長州征伐に伴う公務で、赤松は江戸へ。イギリス騎兵大尉のアプリンに出会い、英語を教えてくれるように頼み込みます。
実は赤松は、独学で英語を学んではいたのです。
アプリンが渡した英語の兵学書もわずか6日間で返却。
驚き怪しみ、『本当にわかっているのか?』とアプリンが質問を投げかけると、しっかり返答する赤松に驚くしかありません。
赤松はこの後、かつて学んだ下曾根金三郎の塾に入って、イギリスの兵学書『英国歩兵練法』等の翻訳出版に励みました。
アプリンから英語を学び始めて一年ほどで、ここまで到達したのです。
こうした翻訳出版により、赤松の名声は高まりました。
更にこの頃からは、
・長州討伐をする幕政批判
・身分制度の廃止
・言論の自由を訴える等
政治批判と近代的国家へのビジョンを語るようになります。
極めて先進的な、政治体制の構想。
もしこれが早くから広まり実現していたら、明治時代は違ったものになったでしょう。
赤松は、藩主である松平忠礼にも、建白書を提出するまでになりました。
薩摩藩と会津藩による招聘
そんな赤松の名声を幕府も知るところになりました。
開成所の教官に採用しようと声をかけます。
が、上田藩が拒絶。
次に彼に注目したのが薩摩藩です。
薩英戦争を経て、慶応2年(1866年)にオランダ式からイギリス式へと兵制改革を進めていた薩摩藩は、英国通の人物を探し求めていました。
藩に赤松を紹介したのは、野津七次という青年薩摩藩士です。
この年の10月、赤松は京都に移り、塾を開きました。
彼が指導した藩は、薩摩だけではありません。
会津藩の砲術指南であり、先進的な考えを持つ山本覚馬も、会津洋学校へ赤松を招いています。
山本は明治維新の混乱の最中、薩摩藩邸に捕らわれております。
しかし、その先進的な知能は知れ渡っており、粗略な扱いを受けてはおりません。
薩摩と会津。
その間に赤松がいたというのは、不思議な縁を感じさせます。
両者共に、民主主義につながる先進的な政治思想を抱いていたという共通点もありました。
先進的な建言書
慶応3年(1867年)、赤松は誤訳のあった『英国歩兵練法』を改訂し、新訳で出版。
しかし彼は、語学や兵学、数学だけの人物ではありません。
西洋の民主主義制度にも通じておりました。
この頃から、新たな世を作るべく上院両院制度を含めた、先進的な建言書を松平春嶽や島津久光らに提出し始めるのです。
時折しも維新前夜の慶応3年(1867年)。
6月下旬から同年9月上旬にかけて、薩摩藩と土佐藩では「薩土盟約」が結ばれていました。
議員制度や民主主義を踏まえ、ソフトランディングで政権交代を目指した土佐に対し、武力倒幕も辞さないようになった薩摩。
両者の盟約は破綻したとされております。
土佐の案は、坂本龍馬の考えを反映し、山内容堂を説得したものとされています。
彼の【船中八策】は実在が不明であり、選挙制度についての記載はありません。
しかし。
龍馬以上にしっかりと、こうした案を提言していたのが、実は赤松なのでした
「龍馬に劣らぬ」という紹介が赤松にはつきものですが、正確には「龍馬を超える」と言えるのではないでしょうか。
実は後世、坂本龍馬顕彰の際に、赤松の事績が反映されるなど、フィクションで描かれる龍馬像には、赤松も反映されているかもしれません。
そうなりますと、通説に変化が見えてきます。
薩摩藩が抱えていた赤松の提案ならば、薩摩藩も同じような案を受け取っていたということになります。
しかし、結果として赤松の提案は実りません。薩摩藩と、その同盟相手である長州藩は、武力倒幕に進むのです。
それが「下策」であったことは、当時から認識されておりました。
なぜ西郷は強引に武力倒幕を進めた?岩倉や薩摩は下策としていたのに
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