福井藩の橋本左内が政局を語る上で、西郷隆盛にこう断言していました。
「幕府は無能」
確かにそんなイメージはあります。
ノロノロと決断できず、外国にいいようにされる幕府。
一方、維新を目指す志士たちは若々しく有能――。
と、これについては一度、冷静に考えてみたいところです。
実は当時の幕府は、倒幕側から言われているほど無能ではありません。
政治家として良い印象のない井伊直弼や、堀田正睦も、藩主時代の実績は素晴らしいものがあり、いわゆる名君クラスです。
そもそも、全国に轟く実績がなければ中央で抜擢されるはずもなく、ましてや多難な政局において頭角を現すことなどできません。高校野球で言えば、甲子園の常連校みたいなものでしょう。
幕末において名を残す殿様や幕臣は、ほとんどが優秀であります。
ましてや以下「幕末の四賢侯」ともなれば、スーパー名君と呼んでよいほど。
では一体、彼らがどれほど優れているのか?
今回は、その一人で、明治23年(1890年)6月2日に亡くなった、松平春嶽(本稿はこの名で統一)について取り上げたいと思います。
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民からは春嶽さんと慕われて
以前、福井県の出身の方から
「うちの祖母は、“春嶽さん”って呼んでいました」
と聞いたことがあります。
民から見てもそう親しみをこめて呼びたくなるほど、彼は立派な殿様だったのでしょう。
ただ……幕末のフィクション作品から考えますと、
【途中でフェードアウトするビッグネーム】
【倒幕派から見ると佐幕派に見えて、佐幕派から見ると裏切り者に見える】
という、なかなか扱いが難しい、つかみどころのない人物でもあります。
幕末ファンなら名前は知っている。しかし、どういう事績があったのか、維新の後は何をしていたか?
そうなると、実はよくわからない……そんな方も多いのではないでしょうか。
実際、なかなか難しい立場にいた人物なのです。
聡明な少年藩主
松平春嶽は文政11年(1828年)、田安徳川家三代目当主・斉匡(なりまさ)の八男として生まれました。
第13代将軍・徳川家慶の従弟にあたり、江戸での生誕になります。
春嶽は、幕府からの命を受け、福井藩第15代藩主・松平斉善の養子へ。
錦之丞と呼ばれた幼いころから聡明ぶりは発揮されていて、読書好き、勉学に励むことを常としていました。
勉強熱心なあまり、大量の紙を消費するため、父親は彼を「羊」と呼んだほどです。
そして天保9年(1838年)、春嶽は福井藩16代目藩主となりました。
江戸にいたころから春嶽は、藩の苦しい財政を理解していました。というか幕末は、藩の規模を問わず、ほぼ、どこの藩でも財政的に苦しい状況です。
福井藩でも、度重なる飢饉のため民衆の打ち壊しや一揆が相次いでおり、御用金をとりやめていたほど。
藩財政は、幕府や商人からの借金でまかなうような状況であり、実質、破綻しているようなものでした。
一時の薩摩よりはマシ、というぐらいでしょうか。
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この状況を受け、春嶽は、自ら率先して倹約に取り組むことを決意しました。
藩主就任の翌年に、藩主手許金を1000両から500両に減額。その一環として、食事は常に一汁一菜以下と定めます。
まだ10代はじめの育ち盛りであるにも関わらず、副食物は漬け物や汁物一品のみで済ませる――そんな若き藩主の姿を見て、側近である中根雪江ら家臣たちは、心の底から感激しました。
必ずや、この若き英主をしっかりと育てあげねばならない。
そう決意した家臣たちのよる教育が、政務と平行して続けられました。
春嶽は耳に痛い諫言もよく聞く、立派な藩主として成長していったのです。
若き名君の入国
春嶽16才の年、いよいよ江戸から福井に入国しました。
入国前、春嶽は水戸藩邸をたずね、28才年上の徳川斉昭に藩主としての心得を尋ねます。
その熱心な姿に感動したのか。斉昭は、九箇条の心得を春嶽に伝えます。
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こうして準備万端、福井にやってきた春嶽。若き藩主の入国に、家臣や領民も期待が高まったことでしょう。
入国した春嶽は、領内を熱心に視察して回ります。
ある村で、彼は70を過ぎた老婆にこう尋ねました。
「そなたは日頃、食事は何を口にしているのか」
「菜雑炊と稗団子でございます」
家臣と共に、いざその稗団子を口にしてみると、あまりの不味さにとても喉を通るようなものではありません。
領民の苦難に直に触れ、春嶽は何としても改革に取り組まねばならないと、強く心に誓います。
領内視察では、領民の生活以外にも見て回ったものがあります。
海岸線の防備です。
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江戸後期のお殿様は大変です。
破綻した財政の立て直しだけではなく、海防や西洋からの文物・技術流入にも対応しなければならないのですから。
若き春嶽の前にも、課題は山積みでした。
断固たる藩政改革
若き藩主・春嶽は、断固たる藩政改革に取り組みます。
まずは先代から藩政にあたっていた家老・松平主馬を辞任させ、山県三郎兵衛に交替。側近・中根雪江の意見に従ったものでした。
これを皮切りに行ったのは、保守派から革新派への人事入れ替えでした。
改革を阻む旧き者たちを退かせると同時に、鈴木主税、村田氏寿、三岡八郎(のちの由利公正)ら気鋭の人材を発掘し、取り立てる。
米沢藩の名君・上杉鷹山を彷彿させる手腕です。
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鷹山と重なる行動は、自ら率先した厳しい倹約にも現れました。
弘化4年(1847年)、供回りを限界にまで減らしてコストを削減し、木綿の質素な着物で歩く春嶽。
その姿は話題となり、贅沢を戒める殿様も増えたのだとか。
実際の中身を見ていきますと、これが単なるコストカットだけじゃないところに彼の真髄が見られます。
【春嶽 主な政策】
◆兵備増強&兵制刷新:西洋式砲術や兵制を取り入れ、野戦砲、洋式銃の製造に着手
◆種痘法導入&種痘館設立:19世紀初頭にイギリスで確立された種痘は、幕末には日本に伝わっており、進歩的な人々はその普及に尽力していました。春嶽は医師・笠原白翁の進言を受け、種痘法の導入を決定しました
◆殖産興業策の振興&藩専売制の廃止:藩による専売制度とは、生産者から藩が生産物を一括して買い上げるものでした。藩と大手商人にとってはうまみのある制度ですが、生産者にとっては買い叩かれるばかりで損ばかりする仕組みでした。そのため江戸時代中期以降、各地の藩で廃止。福井藩でも一揆の一因となっていました。春嶽はこの弊害を取り除くため、廃止したのです
◆藩校「明道館」創設&教学刷新:福井県立藤島高等学校の前身。詳細は後述
確かに素晴らしい、名君の名にふさわしい業績の数々です。
【参考】歴Navi ふくい 笠原白翁(→link)
横井、左内ら俊才を登用
ここで春嶽の言葉を引用させていただきます。
「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しき所に従ふ」
私に才能はなく、優れたアイデアもないのです。ただ、皆の意見を聞き、よいと思ったことに従ったまでのことです
随分と謙遜のように見えますが、実際、彼は人の意見をよく聞きました。
それだけに周囲では、恐れず意見を述べる優れた人材が出現します。
例えば、熊本藩出身の儒学者・横井小楠は、春嶽のブレーンとして活躍することになります。
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春嶽の取り組んだ藩政改革の目玉に、藩校「明道館」の創設があります。
水戸藩の「弘道館」を手本としつつ開校にこぎ着けながら、創設に尽力した鈴木主税が、安政3年(1856年)に逝去。
春嶽と家臣は悩み、話し合った末、若き俊才・橋本左内を起用することにしました。
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橋本は、まだ10代半ばで『啓発録』を記した英才です。登用時はまだ20代になったばかりでした。思い切った春嶽の人材登用センスが光ります。
蘭学に通暁した橋本は「明道館」のカリキュラム制定に大きな影響力を発揮しました。
全国各地において、藩校創設は宝暦期(18世紀半ば)から盛んになっており、「明道館」は創設が遅い部類に入ります。
それがかえって幸いし、当時最先端となる蘭学を取り入れることができたのです。
享和3年(1803年)に創設され、全国的にも有名であった会津藩校「日新館」では、
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蘭学を学ぶことすら出来なかったことと比較すると、その先進性がわかります。そして……。
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