松平春嶽(松平慶永)/wikipediaより引用

幕末・維新

松平春嶽(松平慶永)63年の生涯をスッキリ解説!調停、調停、また調停!

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幕末を描いた大河ドラマ『西郷どん』。
福井藩の橋本左内が政局を語る上で、西郷隆盛にこう断言していました。

「幕府は無能」

確かにそんなイメージはあります。

のたのたと決断できず、外国にいいようにされる幕府。
一方で、若々しい維新を目指す志士たちは、有能であった――。

しかし、これについては一度、冷静に考えてみたいところです。

実は当時の幕府は、倒幕側から言われているほど無能ではありません。
政治家として良い印象のない井伊直弼や、堀田正睦も、藩主時代の実績は素晴らしいものがあり、いわゆる名君。

そもそも、全国に轟く実績がなければ、多難な政局においては頭角を現すことすらできなかったわけです。
高校野球で言えば甲子園の優勝校みたいまのもですね。

幕末において名を残す殿様や幕臣は、ほとんどが優秀です。
ましてや以下の「幕末の四賢侯」ともなれば、スーパー名君と呼んでよいほど。

・福井藩第14代藩主 松平慶永(春嶽)
・土佐藩第15代藩主 山内豊信(容堂)
・薩摩藩第11代藩主 島津斉彬
・宇和島藩第8代藩主 伊達宗城

では一体、彼らがどれほど優れているのか?

今回は、その一人である、松平春嶽(本稿はこの名で統一)について取り上げたいと思います。

 

民からは春嶽さんと慕われて

以前、福井県の出身の方から
「うちの祖母は、“春嶽さん”って呼んでいました」
と聞いたことがあります。

民から見てもそう親しみをこめて呼びたくなるほど、彼は立派な殿様だったのでしょう。

ただ……幕末のフィクション作品から考えますと、
【途中でフェードアウトするビッグネーム】
【倒幕派から見ると佐幕派に見えて、佐幕派から見ると裏切り者に見える】
という、なかなか扱いが難しい、つかみどころのない人物でもあります。

幕末ファンなら名前は知っているでしょう。

しかし、どういう軌跡だったのか、維新の後は何をしていたか?
となると、実はよくわからない……という人も多いのではないでしょうか。

その通り、なかなか難しい立場にいた人物なのです。

 

聡明な少年藩主

松平春嶽は文政11年(1828年)田安徳川家三代目当主・斉匡の八男として生まれました。
第13代将軍・徳川家慶の従弟にあたりまして。江戸での生誕になります。

春嶽は、幕府からの命を受け、福井藩第15代藩主・松平斉善の養子に入りました。

錦之丞と呼ばれた幼いころから、その聡明ぶりを発揮。
読書好きで、勉学に励むことを常としていたのです。
勉強熱心なあまり、大量の紙を消費するため、父親は彼を「羊」と呼んだほどでした。

そして天保9年(1838年)、春嶽は福井藩6代目藩主となりました。

江戸にいたころから春嶽は、藩の苦しい財政を理解していました。
というか幕末は、藩の規模を問わず、ほぼ、どこの藩でも財政的に苦しい状況です。

福井藩でも、度重なる飢饉のため民衆の打ち壊しや一揆が相次いでおり、御用金をとりやめていたほど。
藩財政は、幕府や商人からの借金でまかなうような状況であり、実質、破綻しているようなものでした。
一時の薩摩よりはマシ、というぐらいでしょうか。

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この状況を受け、春嶽は、自ら率先して倹約に取り組むことを決意しました。

藩主就任の翌年に、藩主手許金を1000両から500両に減額。
その一環として、食事は常に一汁一菜以下と定めます。

まだ10代はじめの育ち盛りであるにも関わらず、副食物は漬け物や汁物一品のみで済ませる――そんな若き藩主の姿を見て、側近である中根雪江ら家臣たちは、心の底から感激しました。

必ずや、この若き英主をしっかりと育てあげねばならない。
そう決意した家臣たちのよる教育が、政務と平行して続けられました。

春嶽は耳に痛い諫言もよく聞く、立派な藩主として成長していったのです。

 

若き名君の入国

春嶽16才の年、いよいよ江戸から福井に入国しました。

入国前、春嶽は水戸藩邸をたずね、28才年上の徳川斉昭に藩主としての心得を尋ねます。
その熱心な姿に感動したのか。
斉昭は、九箇条の心得を春嶽に伝えます。

こうして準備万端、福井にやってきた春嶽。
若き藩主の入国に、家臣や領民も期待が高まったことでしょう。

入国した春嶽は、領内を熱心に視察して回ります。
ある村で、彼は70を過ぎた老婆にこう尋ねました。

「そなたは日頃、食事は何を口にしているのか」
「菜雑炊と稗団子でございます」

家臣と共に、いざその稗団子を口にしてみると、あまりの不味さにとても喉を通るようなものではありません。
領民の苦難に直に触れ、春嶽は何としても改革に取り組まねばならないと、強く心に誓います。

領内視察では、領民の生活以外にも見て回ったものがあります。

海岸線の防備です。

異国船の脅威が近づく中、どうすれば防衛できるのか。
それも、取り組むべき課題でした。

江戸後期のお殿様は大変です。
破綻した財政の立て直しだけではなく、海防や西洋からの文物・技術流入にも対応しなければならないのですから。

若き春嶽の前にも、課題は山積みでした。

 

断固たる藩政改革

若き藩主・春嶽は、断固たる藩政改革に取り組みます。

まずは先代から藩政にあたっていた家老・松平主馬を辞任させ、山県三郎兵衛に交替。
側近・中根雪江の意見に従ったものでした。

これを皮切りに行ったのは、保守派から革新派への人事入れ替えでした。

改革を阻む旧き者たちを退かせると同時に、鈴木主税、村田氏寿、三岡八郎(のちの由利公正)ら気鋭の人材を発掘し、取り立てる。
米沢藩の名君・上杉鷹山を彷彿させる手腕です。

上杉鷹山/Wikipediaより引用

鷹山と重なる行動は、自ら率先した厳しい倹約にも現れました。

弘化4年(1847年)、供回りを限界にまで減らしてコストを削減し、木綿の質素な着物で歩く春嶽。
その姿は話題となり、贅沢を戒める殿様も増えたのだとか。

実際の中身を見ていきますと、これが単なるコストカットだけじゃないところに彼の真髄が見られます。

【春嶽 主な政策】

◆兵備増強&兵制刷新:西洋式砲術や兵制を取り入れ、野戦砲、洋式銃の製造に着手

◆種痘法導入&種痘館設立:19世紀初頭にイギリスで確立された種痘は、幕末には日本に伝わっており、進歩的な人々はその普及に尽力していました。春嶽は医師・笠原白翁の進言を受け、種痘法の導入を決定しました

殖産興業策の振興&藩専売制の廃止:藩による専売制度とは、生産者から藩が生産物を一括して買い上げるものでした。藩と大手商人にとってはうまみのある制度ですが、生産者にとっては買い叩かれるばかりで損ばかりする仕組みでした。そのため江戸時代中期以降、各地の藩で廃止。福井藩でも一揆の一因となっていました。春嶽はこの弊害を取り除くため、廃止したのです

◆藩校「明道館」創設&教学刷新:福井県立藤島高等学校の前身。詳細は後述

確かに素晴らしい、名君の名にふさわしい業績の数々です。

【参考】歴Navi ふくい 笠原白翁

 

横井、左内ら俊才を登用

ここで春嶽の言葉を引用させていただきます。

「我に才略無く我に奇無し。常に衆言を聴きて宜しき所に従ふ」
(私に才能はなく、優れたアイデアもないのです。ただ、皆の意見を聞き、よいと思ったことに従ったまでのことです)

随分と謙遜のように見えますが、実際、彼は人の意見をよく聞きました。
それだけに周囲では、恐れず意見を述べる優れた人材が出現します。

例えば、熊本藩出身の儒学者・横井小楠は、春嶽のブレーンとして活躍することになります。

横井小楠/wikipediaより引用

春嶽の取り組んだ藩政改革の目玉に、藩校「明道館」の創設があります。

水戸藩の「弘道館」を手本としつつ開校にこぎ着けながら、創設に尽力した鈴木主税が、安政3年(1856年)に逝去。
春嶽と家臣は悩み、話し合った末、若き俊才・橋本左内を起用することにしました。

当時の橋本は、まだ10代半ばです。思い切った春嶽の人材登用センスが光ります。

蘭学に通暁した橋本は「明道館」のカリキュラム制定に大きな影響力を発揮しました。
全国各地において、藩校創設は宝暦期(18世紀半ば)から盛んになっており、「明道館」は創設が遅い部類に入ります。

それがかえって幸いし、当時最先端となる蘭学を取り入れることができたのです。
享和3年(1803年)に創設され、全国的にも有名であった会津藩校「日新館」では、蘭学を学ぶことすら出来なかったことと比較すると、その先進性がわかります。

橋本左内肖像画(島田墨仙作)福井市立郷土歴史博物館蔵/wikipediaより引用

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黒船来航、幕政へ

嘉永6年(1853年)。
ついにXデーがやって来ました。ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来港したのです。

ついに訪れてしまった、この運命の日。
老中・阿部正弘は、それまでのしきたりを無視して、身分を問わずに広く意見を求めました。
一部の藩を除いて、全国各地の藩主から意見が阿部の元に届けられたのです。

しかしその大半は、こんな感じでした。

「なるべく引き伸ばして、時間稼ぎしたらいかがでしょう」
「こうなったら、ある程度妥協しないといけないんじゃないですかねえ」

そりゃそれが出来たら苦労はせんわ、という感じで、おそらく即座にボツ。
一方で、勝海舟のような、現実的で広い知識に基づいた意見も出てきまして、実際に採用される人もいたわけです。

勝海舟/wikipediaより引用

では、福井藩の松平春嶽はどうでしょうか。

今までの流れからしてこれが意外かもしれませんが【強硬な攘夷論であり、開国はもってのほか!】という主張でした。

ところが、それで終わらないのが、春嶽の春嶽たる所以でしょう。
横井小楠を含めた家臣らと話し合い、自らも『海国図志』で学ぶうちに「開国貿易論」へと転換してゆくのです。

 

一橋派の挫折

この未曾有の国難をどう乗り切るか。
春嶽と彼のブレーンたちは、優秀な人材をまとめあげ、国を良い方向へと導こう、という意見に収束しました。

彼らがまとめた国の組織は、こうなります。

将軍:一橋慶喜
国内事務宰相:松平春嶽・島津斉彬・徳川斉昭
外国事務宰相:鍋島閑叟
その他官僚:川路聖謨・永井尚志・岩瀬忠震

こうなると
「まずは一橋慶喜を将軍にしよう!」
というところから始まるわけで。
島津斉彬や西郷隆盛も関連した【将軍継嗣問題】が起こるのは、こうした動きが背景にあったわけですね。

かくして一橋慶喜を将軍として擁立すべく動き始めた一橋派。
その一手として、薩摩藩主・島津斉彬は養女・篤姫徳川家定の御台所として輿入れさせます。
篤姫を通して、大奥対策を行うこととしたのです。

一方、彼らを警戒して快く思わなかった人物がいます。
急死した阿部正弘の後任者である大老・井伊直弼です。

彼には彼なりの言い分があります。
「一致団結して国難に立ち向かうべき局面なのに、自分たちに有利になるよう勝手に政治的な工作して、一体何を考えているのか。水戸斉昭の息子なんか将軍にしたら、揉めるだけ揉めてロクなことにならんぞ」

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将軍継嗣問題は一般的に【一橋派VS南紀派】とされます。
それはそれで間違っていませんが、その内実は、
【一橋派VS一橋だけはありない派】
とみなした方がよいかもしれません。

一橋慶喜本人は頭脳明晰で、徳川慶福(のちの家茂)よりも年長でありました。
国難に向かうなら、やはり慶喜を立てた方が合理的でもあります。

しかし問題は別のところにありまして。
彼の父である徳川斉昭が、ありとあらゆる方面で敵を作るトラブルメーカーだったのです。
※実はこの父親の困った性格は、慶喜にも受け継がれておりまして。のちに春嶽もさんざん悩まされることになります

斉昭は、春嶽や島津斉彬のように柔軟性を発揮するわけでもなく、強硬な攘夷を主張。
井伊直弼や堀田正睦と真っ向から対立しておりました。

一橋慶喜を将軍にしたら、セットで父親の斉昭がついて来ます。
そんなことになったらまとまるはずの幕政が分裂したまま、無謀な攘夷をやる羽目になるかもしれない。
それでかえって国体を傷つけたらどうするの? 責任取れるの? と、井伊直弼も考えたのですね。

徳川斉昭/wikipediaより引用

要するに一橋派は人選ミスだったわけで……。

井伊は「一橋派」を徹底的に弾圧し、徳川慶福を継嗣として指名しました。
春嶽はじめ一橋派は抵抗したものの、このときには既に斉彬も阿部も亡くなっており、敗退してしまったのです。

ちなみに、ご存知の通りこの数年後には慶喜が徳川15代将軍になります。
春嶽と一橋派に属していた斉彬の弟・島津久光は、慶喜の問題ある性格に散々悩まされます。
致命的な人選ミスをしていた――と春嶽が考えたかどうかは不明です……。

 

敗退に納得いかない徳川斉昭が動き

こうした動きと前後して、一橋派の徳川斉昭が大変なことをやらかしました。

井伊直弼は、堀田正睦らを京都に派遣、日米修好通商条約の勅許を得ようとしていました。
ここで幕政から閉め出された恨みとして、堀田に何とかリベンジしたい斉昭は、自らの姻戚関係を利用して、朝廷工作を行うのです。

結果、堀田は勅許を得られないまま、江戸に戻る羽目に。
井伊が勅許なしで強引に条約調印したのは、こうした斉昭による妨害も一因であったのです。

さらに斉昭は、公卿を動かして「戊午の密勅」まで水戸藩に降させてしまいました。
【倒幕の要求】すら含む大変危険なシロモノで、これを知った井伊の怒りは頂点に達します。

井伊からすれば、皆で力を合わせるべき難局です。
それを一橋派がグチャグチャにしているように思えても仕方のないところ。

怒りに燃える井伊は「安政の大獄」で一橋派を弾圧。
斉昭・斉彬とともに一橋派であった春嶽も謹慎処分を受けました。

大名であった春嶽は処刑されなかったものの、彼を支えてきた若き天才・橋本左内は、斬首となるのです(享年26)。

その報復を受けて、井伊自身も凶刃に斃れてしまいました(「桜田門外の変」)。

「桜田門外の変」を描いた様子/Wikipediaより引用

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謹慎からの返り咲き

一橋派の藩主のうち、斉昭と斉彬は急死。
最年少の春嶽だけが生き残りました。

春嶽は、支藩である糸魚川藩主松平直廉(茂昭)に家督を譲り、自身は江戸・霊岸邸での蟄居を余儀なくされます。

彼の生活は、大変厳しいものとなり、社会からも隔絶されました。
文通・面接は一切禁止。
外出は、健康を保つため許可された散歩のみです。

やがて処分が緩和されると、横井小楠と国事について語ることができました。

そんな謹慎処分を終えるきっかけとなったのが、文久2年(1862年)、島津久光の京都出兵です。

島津久光/wikipediaより引用

一橋派の一角を担った島津斉昭の異母弟であり、薩摩藩主の父である久光は、上洛により政治的な圧力を仕掛けました。
久光は、勅使を派遣して幕政改革を迫ってきたのです。

この要求により、春嶽の処分も解かれました。
実に5年ぶりに、彼は幕政に復帰することとなったのです。かつての一橋派の完全復活です。

この幕政改革により、一橋慶喜が将軍後見職、春嶽は政事総裁職に任命。
かつて抱いていた政治構想が復活したわけです。

春嶽は早速、横井小楠をブレーンとして幕政改革に取り組みます。

・海軍力増強(責任者は勝海舟)
参勤交代制度の緩和
・諸藩の意見を幕政に取り入れ、反映させる

勝の登用には春嶽も関わっていたのですね。

こうした取り組みは一定の成果を見せますが、同時に新たな問題が持ち上がってきました。
京都の攘夷派です。そして……。
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