近衛忠煕/wikipediaより引用

西郷どん特集 幕末・維新

近衛忠煕(ただひろ)91年の生涯~篤姫を養女にしたエリート貴族【年表付き】

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【近衛家】と聞いて、みなさんはどんなイメージを思い浮かべますか?

一般的な歴史ファンの方でしたら『貴族の代表的存在だなぁ』と感じるでしょうし、戦国ファンであれば『織田信長と仲良しの近衛前久さん!』を発想されるかもしれません。
あるいは『何も思い浮かばない』という方が、現実的には一番多いでしょうかね。

実は2018年大河ドラマ『西郷どん』でも同一族の方が登場されておりました。

国広富之さんが演じていた近衛忠煕(このえただひろ)。
渡辺謙さんの島津斉彬だけではなく、北川景子さんの篤姫、あるいは主役・鈴木亮平さんの西郷隆盛ともかなり密なヤリトリが交わされるのです。

公家の中では名門中の名門。
史実では、いったいどんな人物だったのでしょうか?

 

摂政・関白を輩出する五摂家の一つ

忠煕は、文化5年(1808年)、左大臣をつとめた近衛基前の子として生まれました。
母は大納言徳川宗睦の女・静子です。

近衛家が名門であると申したのは、それが「五摂家」のひとつだからです。

五摂家とは摂政・関白になれる藤原家の一派であり、先祖を辿ると2011年大河ドラマ『平清盛』にも出てきた藤原忠通まで遡れます。
「悪左府」こと藤原頼長の兄ですね。その忠通の子・近衛基実からの名門家系ということになります。

近衛基実/wikipediaより引用

江戸期を通じてもエリート中のエリートということには変わりありません。
幕末の公家では岩倉具視が有名ですが、近衛の方が格段に上でした。

ちなみにこの近衛の家系は、まるで戦国武将のようにタフだった近衛前久にも遡れます。
前久の娘である前子が後陽成天皇の皇子を産み、その皇子が近衛信尋として同家を継ぐのです。

男系としては絶えてますが、その近衛信尋の結婚相手が前久の孫でしたから、血の濃さに変わりはないでしょう。

 

島津家との姻戚関係は?

さて、この近衛忠煕、なんといっても島津との結びつきが強いです。
姻戚関係を確認しておきましょう。

◆忠煕の妻・郁姫(島津興子)が、島津斉興の養女(血縁的には妹)
◆郁姫の実父は島津斉宣
◆島津斉宣は、篤姫の父・今和泉島津家の当主である島津忠剛の父にもあたる
◆忠煕の妻・郁姫は篤姫にとって血縁上ではおば
◆篤姫にとって、忠煕はおばの夫

ということですね。さらに篤姫は島津斉彬の養女となってから近衛の養女となってますのでチョット……いやかなりこんがらがってしまうかもしれません。

いずれにせよ、これだけ婚姻関係の深い忠煕のもとに入ってから、徳川13代将軍・徳川家定へ輿入れするのです。

なぜ、そんな面倒臭いことをするのか?

「大名家分家の姫君よりも大名家当主の姫の方がいい。さらに五摂家の姫ともなればグレードアップ!」
という発想です。

が、実はそれだけではありませんでした。

 

「チーム篤姫」は近衛家ゆかりの者

いよいよ将軍家へ輿入れという中、篤姫の周りには強力な老女が2人もつきます。

一人目の名は、幾島

彼女は郁姫付きの侍女として、薩摩から京都近衛家に仕えていました。
薩摩という同郷出身で、長年公家にも仕えた幾島は、篤姫にとって心強い助っ人でもありました。

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そしてもう一人、欠かせないのが「村岡局」です。

彼女は長年近衛家に仕えてきたキャリアウーマンで、ベテラン。「清少納言の再来」されるほど頭が切れます。

郁姫が既に亡くなっていたため、篤姫の養母役とされました。

もっとも、年齢差は祖母と孫というほうが近いですね。

このように、篤姫周辺を固めるスタッフは、近衛家ゆかりの者たちであるわけです。

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浮沈の激しい忠煕の人生

さて、忠煕本人の人生をみてみましょう。

公家は位階(ランク)が重要となりますので、年表に合わせて見ていきたいと思います。

文化5年(1808年) 誕生
文化13年(1816年) 従五位上、左権少将
文化14年(1817年) 従三位
文政4年(1821年) 正三位
文政6年(1823年) 従二位
文政7年(1824年) 正二位、内大臣
天保5年(1834年) 従一位
弘化4年(1847年) 右大臣
安政4年(1857年) 左大臣
安政5年(1858年) 外交問題が揉めて、九条尚忠に代わって内覧となったものの「安政の大獄」で失脚。内覧、左大臣を辞して落飾(出家)謹慎し、翠山と号する
文久2年(1862年) 日参朝を許され、復飾(還俗)、関白内覧となる
文久3年(1863年) 尊王攘夷派に排斥され、関白を辞する
慶応3年(1867年) 再び参朝停止
明治元年(1868年) 参朝を許される
明治2年(1869年) 麝香間祗候となる
明治6年(1873年) 退隠
明治11年(1878年) 従一位に復叙
明治18年(1885年) 勲一等に叙し、旭日大綬章を賜わる
明治29年(1896年) 四代の天皇に仕えて勲功があり、90才という長寿に達したため、特旨を以て旭日桐花大綬章を授けられる
明治31年(1898年) 没。享年91

こうしてみると、なかなか浮き沈みの激しい人生です。
特に安政4年から明治元年までは、かなりめまぐるしく変わっております。

ただ、まあ……これは彼の世渡り上手な一面を感じさせる部分でありまして。
野心がなく、恨みを買いにくい性格であったのでしょう。

公卿というと、おとなしく歌でも詠んでいるイメージがあるかと思いますが、幕末ともなるとそうでもありません。
挙兵に参加したり、戦場へ向かったりする者もいました。
優雅に歌を詠んでいる場合じゃない、今は国のために働くべきだと考える、そんな熱い公卿も多かったわけです。

そんな活動の最中、失脚するのはよくあることです。
運が悪いと、暗殺されてしまうことすらありえました。

それを生き抜いた忠煕。

彼が歴史上で最も影響を与えたのが「戊午の密勅」です。

 

「戊午の密勅」に関わる

戊午の密勅とは何なのか?

安政5年(1858年)、幕政を批判し、その改革を水戸藩に命じたヒミツの命令のことです。

内容は以下の3点に要約されます。
・勅許なく「日米修好通商条約(安政五カ国条約)」に調印したことは許しがたい。説明を求める
・御三家および諸藩は、幕府に協力して公武合体の実をなすこと。幕府は攘夷推進および幕政改革を遂行すべし
・上記2つの内容を諸藩に伝達するように、という副書

こういう内容の勅諚(勅命)を、本来は必要となる関白・九条尚忠の裁可を飛ばして、下賜してしまったのです。

必要な手続きを経ていないからヒミツの命令である「密勅」と呼ばれまして。
戊午の密勅には、青蓮院宮(中川宮朝彦親王)、三条実万と並んで、近衛忠煕が関与していました。

この密勅は、様々な事件を引き起こしました。
まず、頭ごなしに勝手なことをされたとして井伊直弼が激怒。「安政の大獄」の引き金となります。

実際、忠煕もこのとき、処罰を受けて、落飾謹慎(仏門に入って世間と縁を断ち切る)という重い処分にまで追い込まれました。

彼はまだましな方で、この密勅に関わったため、梅田雲浜は獄死、頼三樹三郎は処刑されています。

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水戸藩では、密勅への対応をどうするかということで、藩が二分されました。

密勅を重視し天皇家に忠誠を誓うか。それとも徳川家に中世を誓うか。分裂したのです。

結果、水戸では凄惨な内部抗争状態に陥り、壊滅的な打撃を受けることへとつながってゆきます。

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なぜ薩摩は暴発しなかった?

薩摩藩の過激な「精忠組」も、水戸藩同様に暴走しそうになります。

しかしこれを事前に押さえたのが幕末薩摩の「国父」こと島津久光
大久保利通大山格之助大山綱良)らを通じて、暴走する若手藩士たちを剛柔巧みな手腕でたしなめ、藩の分裂と暴走を阻止したのでした。

例えば寺田屋事件では、有馬新七らを討ち取ったりしています。

近衛忠煕は、幕末において姻戚関係の薩摩藩島津家と連携しながら行動した公卿と言えます。

浮き沈みの激しい人生ながら、明治の世まで生き抜いた、無欲で堅実な人物でした。

文:小檜山青

【参考文献】
『女たちの幕末京都』辻ミチ子(→amazon link
国史大辞典

 



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