近衛忠煕

近衛忠煕/wikipediaより引用

幕末・維新

篤姫を養女にした近衛忠煕(ただひろ)幕末のエリート貴族91年の生涯とは?

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浮沈の激しい忠煕の人生

さて、忠煕本人の人生をみてみましょう。

公家は位階(ランク)が重要となりますので、年表に合わせて一気に見ていきたいと思います。

文化5年(1808年) 誕生

文化13年(1816年) 従五位上、左権少将

文化14年(1817年) 従三位

文政4年(1821年) 正三位

文政6年(1823年) 従二位

文政7年(1824年) 正二位、内大臣

天保5年(1834年) 従一位

弘化4年(1847年) 右大臣

安政4年(1857年) 左大臣

安政5年(1858年) 外交問題が揉めて、九条尚忠に代わって内覧となったものの「安政の大獄」で失脚。内覧、左大臣を辞して落飾(出家)謹慎し、翠山と号する

文久2年(1862年) 日参朝を許され、復飾(還俗)、関白内覧となる

文久3年(1863年) 尊王攘夷派に排斥され、関白を辞する

慶応3年(1867年) 再び参朝停止

明治元年(1868年) 参朝を許される

明治2年(1869年) 麝香間祗候となる

明治6年(1873年) 退隠

明治11年(1878年) 従一位に復叙

明治18年(1885年) 勲一等に叙し、旭日大綬章を賜わる

明治29年(1896年) 四代の天皇に仕えて勲功があり、90才という長寿に達したため、特旨を以て旭日桐花大綬章を授けられる

明治31年(1898年) 没。享年91

91というかなりの長寿でありますが、同時に浮き沈みの激しい貴族人生でもありました。

 

特に安政4年から明治元年までは、かなりめまぐるしく変わっております。

ただまぁ、これは……彼の世渡り上手な一面を感じさせる部分でありまして、野心がなく、恨みを買いにくい性格であったのでしょう。

公卿というと、おとなしく歌でも詠んでいるイメージがあるかと思いますが、幕末ともなるとそうでもありません。

挙兵に参加したり、戦場へ向かったりする者もいました。

優雅に歌を詠んでいる場合じゃない、今は国のために働くべきだと考える、そんな熱い公卿も多かったわけです。

そんな活動の最中に失脚してしまうのはよくあることです。運が悪いと、暗殺されてしまうことすらありえました。

それを生き抜いた忠煕。

彼が歴史上で最も影響を与えたのが【戊午の密勅(ぼごのみっちょく)】です。

 


「戊午の密勅」に関わる

戊午の密勅とは何なのか?

安政5年(1858年)、幕政を批判し、その改革を水戸藩に命じたヒミツの命令のことです。

内容は以下の3点に要約されます。

・勅許なく「日米修好通商条約(安政五カ国条約)」に調印したことは許しがたい。説明を求める

御三家および諸藩は、幕府に協力して公武合体の実をなすこと。幕府は攘夷推進および幕政改革を遂行すべし

・上記2つの内容を諸藩に伝達するように、という副書

こういう内容の勅諚(勅命)を、本来は必要となる関白・九条尚忠の裁可を飛ばして、下賜してしまったのです。

必要な手続きを経ていないからヒミツの命令である「密勅」と呼ばれ、青蓮院宮(中川宮朝彦親王)、三条実万と並んで、近衛忠煕が関与していました。

この密勅は、様々な事件を引き起こします。

まず、頭ごなしに勝手なことをされたとして井伊直弼が激怒。

【安政の大獄】の引き金となりました。

井伊直弼/wikipediaより引用

実際、忠煕もこのとき、処罰を受けて、落飾謹慎(仏門に入って世間と縁を断ち切る)という重い処分にまで追い込まれました。

彼はまだましな方で、この密勅に関わったため、梅田雲浜は獄死、頼三樹三郎は処刑されています。

水戸藩では、密勅への対応をどうするかということで、藩が二分されました。

密勅を重視し天皇家に忠誠を誓うか。それとも徳川家に忠誠を誓うか。分裂したのです。

結果、水戸では凄惨な内部抗争状態に陥り、壊滅的な打撃を受けることへとつながってゆきます。

 


なぜ薩摩は暴発しなかった?

薩摩藩の過激な【精忠組】も、水戸藩同様に暴走しそうになります。

しかしこれを事前に押さえたのが幕末薩摩の「国父」こと島津久光

島津久光/wikipediaより引用

大久保利通や大山格之助(大山綱良)らを通じて、暴走する若手藩士たちを剛柔巧みな手腕でたしなめ、藩の分裂と暴走を阻止したのでした。

もちろん被害ゼロでは収まらず、例えば【寺田屋事件】では、大山らが有馬新七らを討ち取ったりしています。

近衛忠煕は、幕末において姻戚関係の薩摩藩島津家と連携しながら行動した公卿と言えます。

浮き沈みの激しい人生ながら、明治の世まで生き抜いた、無欲で堅実な人物でした。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
辻ミチ子『女たちの幕末京都』(→amazon
『国史大辞典』

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