愛加那/wikipediaより引用

幕末・維新

愛加那~西郷2番目の妻とは? 西郷に愛され菊次郎を産んだ奄美の島妻

生涯において3人の妻を娶った西郷隆盛

その中で最も印象深い奥さんが、2番目の妻にあたる愛加那(あいかな)かもしれません。

大河ドラマ『西郷どん』では、目鼻立ちのクッキリした二階堂ふみさんが熱演。

薩摩と琉球の間に位置する奄美大島の人であり、西郷が島送りで流されたときに現地で知り合った妻、通称・島妻(あんご)でした。

「黒糖地獄」とも呼ばれる圧政が敷かれていた島で、2人は如何にして知り合い、結婚へ至ったのか。

当時の西郷や島の情勢に触れながら、見て参りましょう。

 

奄美大島へ遠流

安政5年(1858年)。
京都の僧侶・月照と入水事件を起こした西郷について、薩摩藩ではその処分に頭を悩ませました。

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幕府の目を考えれば、堂々と鹿児島で暮らさせるワケにもいかない。

では、どうするか?

藩では西郷の死を偽装し、墓まで作りました。

「菊池源吾」という偽名まで用意。さらには年間6石という、僅かな扶持米だけ与えられ、西郷は奄美大島に遠流となりました。

まぁ、死刑を免れただけでも、寛大な処分とも言える状況だったでしょう。

 

「黒糖地獄」凄まじき

豊で美しい自然が特徴の奄美大島。

かつて、この島の人々は琉球王国に属しながら暮らしていました。

奄美大島

それが一変したのが、慶長14年(1609年)のことです。薩摩藩による「琉球侵攻」により、支配者が変わってしまいます。

島へ攻め込んだ島津忠恒(家久)は、奄美大島に圧政を敷きました。
真田幸村真田信繁)を「日本一の兵(つわもの)」と記したのは、この忠恒です

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薩摩藩が栽培を奨励したのが、金になるサトウキビでした。全ての平地にサトウキビが植えられ、斜面にまで段々畑が作られました。

島民の食糧確保のための田畑は、最低限のものしか作ることができません。

そこで彼らは、猛毒を持つ蘇鉄の実からデンプンを得て食べていました。

毒のある蘇鉄は、面倒な毒抜きをしなければ食べることすらできません。そうしたものを口にしなければならないほど、島津家の圧政は凄まじかったのです。

奄美大島で作られる蘇鉄味噌/photo by Hhaithait wikipediaより引用

そこまでしてサトウキビを作っても、島民の生活は貧しいままです。

家を売り、田畑を売り、売る物が何もなくなった人は、「家人(ヤンチュ)」という奴隷身分にまで自らを落としてしまいました。

彼らは家畜小屋のような場所で寝起きし、食事は焼酎を造った時に出る酒粕と……そんな状態で、昼夜問わず働かされたのでした。多い地域では、人口の4割がこの「家人」だったというからおそろしいものです。

黒糖地獄――。

かくして薩摩藩の奄美大島に対する搾取は、そう呼ばれるようになりました。

搾取は薩摩藩の財政を潤し(それでも色々あって金は不足したのですが)、幕末維新の政局をリードする原動力ともなったのです。

 

島での暮らし

話を西郷高森に戻しましょう。

当初の西郷は、島生活が嫌でならなかったと言います。

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富豪の龍左民のもとで暮らしたものの、すぐに嫌気がさし、自給自足の生活をスタート。そんな西郷が物珍しかったのか、島民は西郷の家を覗きにしょっちゅう来ます。

鬱屈を抱えて大木相手に相撲を取り、木刀を振り回す様子を見て、彼らはこう呼びました。

「大和のフリムン(狂人)」

当時の薩摩藩の人々は、島の住民を一段下に見ておりました。

西郷も例外ではありません。ストレスも溜まっていたのか、当時の書状には島民の態度に困惑し、「けとう」と呼んであきれる様子が記されています。

そんな西郷ですが、島民について気に入ったことがありました。

目鼻立ちのハッキリとした美女が多かったのです。

 

「島妻」

そうこうして、一年が過ぎ。西郷は女郎屋に通うようなこともない真面目な男でしたが、彼も既に32才です。一年の滞在期間の間に、島民との関係も改善していました。

そこで、こんな話が持ち上がります。

「島妻(アンゴ)を娶ってはどうか」

薩摩藩では、領内の遠い島に滞在する場合、正妻の他に妻を娶ってもよい、という藩法がありました。

ただし、こうした「島妻」は、いくつかの決まりがありまして。

・島妻を薩摩に連れて帰ることはできない
・島妻との間に生まれた子は、薩摩に連れて行き、教育を受けさせることができる
・島妻との間に生まれた子が男子の場合、郷士とすることができる
・扶持米をもらうことができる

貧しさにあえぎ、「家人」にまで身を落とさねばならない島の人々。彼らにとって、島妻という地位は魅力的でした。娘を進んで島妻に差しだす親がいても、不思議ではありません。

こうして「島妻」として白羽の矢が立ったのが、愛加那(あいかな)だったのです。

愛加那は、西郷が身を寄せていた龍家の龍佐恵志(りゅう さえし)の娘で、母は枝加那(えだかな)でした。

まだ6才という幼さで父を亡くし、5人きょうだいの4番目として育ちました。

天保8年(1837年)生まれの愛加那は、西郷より9才年下の23才。目鼻立ちのくっきりとした、島の女性らしい美女でした。幼名は「於戸間金(おとまがね)」となります。

「於」は尊称。
「金」は女性につける「加那」の古い呼び方です。

名前は間に挟まれた「戸間(とま)」ということになります。「おとまさん」ということですね。

西郷と結婚した際、「とま」という名を「愛」にかえて、「愛加那」と呼ばれるようになります。「愛子」、「愛さん」という意味でした。

 

西郷と愛加那

前述のような事情を考えれば、西郷と愛加那の間に、結婚前のロマンスがあったとは考えられません。

周囲が薦めて、娶ったというのが妥当な気がします。

ただし、それではあまりにつまらないわけで。大河ドラマ原作にもなった林真理子氏の『西郷どん』でも、二人の間にはロマンスが描かれます。ドラマでも、それは必要以上に強調されておりましたね。

結婚後、西郷は愛加那を愛しました。それも、周囲の人が驚くほどに。たとえば……。
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