薩摩の篤姫が、江戸に輿入れするとき、そのフォロー役としてお供した女性。
幾島をご存知でしょうか?
2018大河『西郷どん』では南野陽子さんが演じられておりましたね。
薩摩出身でありながら京都の近衛家に仕えていた彼女は、江戸での政治工作を任されており、そのハートの強さから「女丈夫」と称されていたとも伝わります。
いったい彼女はどんな人物だったのか?
篤姫や西郷にとっていかなる存在だったのか?
史実の幾島を追ってみました。
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薩摩生まれで京都で生活 篤姫のお付きにもってこい
時は安政3年(1856年)。
外国勢力が江戸幕府と外交を始め、騒然としていたころ、薩摩藩から篤姫が将軍・徳川家定に輿入れしました。
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もともと彼女は島津忠剛(ただたけ)の娘で、後に当主・島津斉彬の養女になり、さらに右大臣・近衛忠煕の養女となって、はるばる江戸の将軍家に嫁いでおります。
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少しでも篤姫の心が安まるよう、お付きの老女は薩摩出身者が望ましいとされ、そこで選ばれたのが老女藤田でした。
藤田は、もともと郁姫(島津斉彬や島津久光の父にあたる島津斉興の養女)付きの老女でした。
さらに郁姫は近衛忠煕の正室ですから繋がりは浅くない。
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薩摩で生まれ、京都で主君に仕えていた藤田は、篤姫お付きの老女として、これ以上ないぐらいに相応しい人物だったかもしれません。
この時から藤田は名を改め、幾島と名乗るようになったのです。
「なぜ、神君の敵である、薩摩如きから嫁を迎えるのだ」
御台所としてやっと輿入れした篤姫。その瞬間からの不安は決して小さくありませんでした。
なにせ夫となる家定は、「なぜ、神君(家康)の敵である、薩摩如きから嫁を迎えるのだ」と文句タラタラです。
時間が経って仲むつまじくなったとはいえ、当初の篤姫は、手放しで歓迎されたというわけではありません。
おまけに、いざ家定本人と打ち解けることができたとしても、彼らの周囲には、徳川家定の母・本寿院や御年寄・滝山がおり、ガッチリと脇は固められております。
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こうした状況で頼りになるのは、勝海舟をして「堅固にして強毅」といわしめた篤姫自身の気性そのものと、薩摩から来た幾島の存在であったことでしょう。
歴史の教科書に載るような存在ではありませんが、ドラマを面白くするのには欠かせない、まさに個性的な脇役的存在でした。
西郷と橋本左内が知り合ったのは政治工作がキッカケ?
はじめこそ、よそよそしかった家定と篤姫は、やがて距離を縮めてゆきます。
その様子を見た周囲は、二人の間に世継ぎが生まれるのではないかと、期待し始めました。
篤姫周辺にとってはめでたい話ですが、これを面白く思わない者もいます。
越前福井藩主・松平慶永(松平春嶽)。彼は将軍家の後嗣として一橋慶喜を推しておりました。
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将軍家の後嗣問題には、何といっても大奥の後ろ盾が必要となってきます。
同じく一橋派である島津斉彬は、慶永を援助するため「お庭方」である西郷吉之助、のちの西郷隆盛を使うことにしました。
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西郷と越前福井藩士・橋本左内が知遇を得るのは、この将軍家後嗣問題の流れからです。
両者の交流を「明日の日本の未来を作るため!」と思いたくなる気持ちはわかりますが、さすがに当時そこまで大きなビジョンはなく、あくまで政治工作の範囲内と見たほうが自然でしょう。
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慶喜を養子にするにも歳を取り過ぎ
ただし、この工作は不発に終わります。
最大の要因はやはり、家定がまだ「後嗣問題を考えることすらしたくなかった」点にあります。
仲むつまじい正室・篤姫との間に、まだ子が望める以上、後嗣問題など耳にするのも腹立たしいものです。
夫がそう思っているからには、西郷がいくら策を弄したところで篤姫も動けません。
そこで篤姫はまず、姑の本寿院に後嗣問題を相談してみます。すると……。
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