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【幾島】
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慶喜を養子にするにも歳を取り過ぎ
ただし、この工作は不発に終わります。
最大の要因はやはり、家定がまだ「後嗣問題を考えることすらしたくなかった」点にあります。
仲むつまじい正室・篤姫との間に、まだ子が望める以上、後嗣問題など耳にするのも腹立たしいものです。
夫がそう思っているからには、西郷がいくら策を弄したところで篤姫も動けません。
そこで篤姫はまず、姑の本寿院に後嗣問題を相談してみます。
「家定はまだ自分は若いと思っていますからね。慶喜を養子とするには年がゆきすぎています。あなたから夫にそのような話をしてはいけませんよ。夫婦の仲が悪くなりますから」
こう釘を刺されて、篤姫が家定にこの件を持ち出すことは難しくなりました。
周囲の期待ほど動けない篤姫 叱責する幾島
そもそも将軍の世継ぎが誕生するかもしれない――。
そう期待しているのは、家定だけではなく篤姫も同じです。夫との間に子供がデキる期待がある以上、後嗣問題を持ち出す必要性を感じられない。彼女がそう思ったとて無理のないところです。
この間、篤姫の隣で工作を行っていたのが幾島です。
工作がうまくいかないのは、篤姫と家定だけのせいではありません。
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うまくいかない工作に苛立った幾島は、ついに近衛忠煕に「後嗣工作への動きが鈍い篤姫をきつく叱ってください」と書状を送っています。
大奥工作という目的もあって御台所に入ったのに、周囲の期待ほど動かない篤姫。
それを叱責する幾島。
そんな関係が見えて来ます。
度胸満点の女丈夫は、金の使い方も
さてこの幾島。大奥ではどのように見られていたのでしょうか。
前述の通り、なかなか動かない篤姫にしびれを切らすような人物です。
島津斉彬の命を受け、大奥工作を行うやる気まんまんで乗り込んできた女性でした。
彼女は工作のためならば金を湯水のようにバラ撒き、周囲からは
「女丈夫」
「心たくましく肝が太い女性」
という評判でした。
ただの篤姫お付きの女官ではなく、権勢を振るい賄賂をも辞さない、度胸満点の女性工作員といったところでしょうか。
しかし家定の死後(1858年)以降、彼女の消息は史料上見えにくくなります(薩長による倒幕が進むにつれて、篤姫と薩摩の関係は急速に悪化して参りますので、そうなったときの西郷隆盛との関係も非常に重要だと思うのですが……)。
それでもバイタリティに溢れる女性です。
きっとたくましく動乱の時代を生き抜いたことでしょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
辻ミチ子『女たちの幕末京都 (中公新書)』(→amazon)
国史大辞典