大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で源頼朝を演じた大泉洋さんと、その隣でせかせかと動き回っていた、ご年配の武士。
安達盛長に対してどんな印象をお持ちだったでしょうか?
俳優・野添義弘さんの巧妙なお芝居で、ちょっとオッチョコチョイ、されど頼朝が心から信頼を寄せている――そんな人物像が伝わってきて、見ていて妙な安心感がありましたよね。
この人は絶対に裏切らないゾ!みたいな。
だとしたら、それは三谷脚本の狙い通りかもしれません。
史実の安達盛長も、まさにそんなイメージ。
出自は不明で、正治2年(1200年)4月26日が命日です。
本人のキャラを示す派手なエピソードは少ないですが、常に頼朝の隣に侍っていた側近であり、当時、心から信頼されたであろう数少ない武士でした。
では安達盛長とは一体どんな人物だったのか。
その生涯を振り返ってみましょう。
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安達盛長は藤原氏一族の可能性
安達盛長の出自はよくわかっていません。
室町時代に編纂された系図集『尊卑分脈』では藤原北家魚名流とされていますが、信憑性は怪しく。
魚名流には平将門討伐で有名な武士・藤原秀郷がいるため、その武名にあやかろうとしたのかもしれません。
ただし、以下の理由から、藤原氏の一員だった可能性は高そうです。
◆兄が藤原遠兼とされており、彼の所領にちなんで「足立」と名乗り始めたらしい
◆頼朝の乳母で藤原氏の流れを汲む比企尼の娘・丹後内侍(たんごのないし)と結婚している
◆比企尼の命により、他の比企氏の縁者と共に流刑中の頼朝を支援していた
比企尼はドラマで草笛光子さんが演じ、その息子の比企能員が佐藤二朗さんでしたね。
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そうした縁から早いうちに頼朝を支援していて、他にも「十三人の合議制」に加わる足立遠元と血縁関係があるのでは? という説があります。
いずれにせよ、出自や血縁については不明ながら、史書『吾妻鏡』での登場は早く、治承四年(1180年)6月24日に盛長の名が出てきます。
以仁王の挙兵が失敗に終わり、協力した源頼政が討たれたというタイミングです。
このとき頼朝は急いで挙兵するべきだと考え、源氏と縁のある関東武士たちを味方につけるべく、盛長と中原満家に使者を命じました。
東国では【前九年の役】と【後三年の役】で源氏から恩賞を与えられた武士が多く、心情的には味方となる家が多数あったためです。
その後の【保元の乱】と【平治の乱】では、頼朝の父である源義朝は負け組に回ってしまいましたが、当時も源氏方で参戦していた家は多々ありました。
こうした数々の騒乱を経て、上方では平家が全盛を迎えていました。
源氏から平家に乗り換えた武家も数多ありましたが、生きていくためには致し方ないところ。
それを引っくり返そうと立ち上がったのが源義朝の三男・頼朝だったワケです。
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山内首藤に暴言を吐かれる盛長
挙兵の誘いに出て一週間後の7月10日、安達盛長が頼朝のもとへ戻ってきました。
「相模には、頼朝様にお味方するという武士がおりました。しかし、波多野義常と山内首藤経俊は従わないばかりか、源氏に対して暴言を吐いている有様です」
暴言とはやぶさかではありませんが、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも話題になりましたね。
盛長に向かって
「清盛が虎なら頼朝なんて鼠だ! 犬の糞だ!」
と、吐き捨てられたシーンですが、完全に創作でもなく記録として残っていて、その理由と思しき出来事もありました。
波多野義常の父(義通)が、頼朝の父(義朝)と不仲だったこと。
山内首藤経俊の父と兄が【平治の乱】で討ち死にして、経俊が家督を継いでいたこと。
どちらもよくある話ですが、義常と経俊にとって「源氏に関わると縁起が悪い」と思うには充分でしょう。
特に山内の場合、頼朝と乳兄弟で関係はかなり深かったのですが、実は弟の俊秀も【以仁王の挙兵】に応じて敗死したばかりで、源氏への反発心は一層強かったのではないでしょうか。
※ただし山内首藤経俊は後に命を助けられ鎌倉幕府でも一時は要職に就きます
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盛長らの働きにより挙兵の段取りがついた頼朝は、具体的な戦術を練り始めました。
まずは士気と団結力を高めるため、かねてから遺恨のあった山木兼隆を討つ――。
兼隆は何らかの罪で伊豆へ流されていて、その後、平時忠に引き立てられ、伊豆の代官を務めていた者です。
『曽我物語』などでは、かつて北条政子が嫁がされそうになった相手として挙げられますが、これは創作だろうという見方が濃厚です。
頼朝と政子の間に生まれた長女・大姫の生年が治承二年(1178年)で、兼隆が伊豆へ流されたのは治承三年(1179年)なので、時系列的に無理があるんですね。
しかし問題がありました。
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