安達盛長

安達盛長も付き従っていた頼朝の上洛を描いた歌川貞秀『建久元年源頼朝卿上京行粧之図』/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

疑り深い頼朝に信用された忠臣・安達盛長~鎌倉幕府でどんな役割を担っていた?

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山木邸へスパイを送り込み情報収集

山木兼隆の邸は険しい地形の中にあり、簡単には攻め込めません。

『鎌倉殿の13人』では祭りの日に乗り込もう!

という段取りでしたが、実際は攻め込む手段に戸惑っていたようです。

そこで頼朝は、右筆の藤原邦通を兼隆邸に送り込み、周囲の図面を描かせました。

藤原邦通もまた出自不明な人ですが、盛長に推挙されて頼朝に召し抱えられた才人で、文筆や和歌、踊り、歌唱など、様々な芸に通じていました。

彼を芸人として宴に潜り込ませ、調査させようというわけです。

いわばスパイですね。

思惑通り、邦通は兼隆の酒宴で流行歌を歌って気に入られ、しばらく滞在していいとの許可を得ました。

その間に周辺の山や川、村里までを描き、頼朝の下へ戻ります。

源頼朝北条時政はその図を見て当日の戦術や進路を練りました。

そして三島神社の祭礼が行われる8月17日、頼朝はついに挙兵を決めます。この辺はドラマでも同じ描写でしたね。

『鎌倉殿の13人』では北条家の一団が山木邸へ忍び寄り、頼朝は政子の側にいましたが、一方の安達盛長は神社に捧げものを届ける役目をしており、いつ合流したのか定かではありません。

吾妻鏡には、

「午後8時頃に安達盛長の家臣が、北条邸に来ていた兼隆の雑色を捕えた」

とあり、史実の頼朝たちが出発したのは深夜だったとされていますので、それまでの間に神社から盛長が戻ってきていてもおかしくはありません。

深夜に襲いかかった頼朝軍は明け方までに兼隆を討ち取り、8月20日には伊豆・相模の味方を連れて、土肥郷(現・湯河原町)へ進みます。

このときのメンバーに盛長の名もあります。

しかし、その後の【石橋山の戦い】で頼朝軍が敗れ(8月23日)、伊豆から脱出するとき、彼の動向は記録されていません。

身分の低さゆえに発言を謹んだのか、あるいは記録されなかったのか、それとも頼朝と早い段階で別れ別れになっていたのか……。

盛長の人物像がいまいちハッキリしない理由もこの辺りにあるかもしれません。

後に頼朝には重用されていますので、武辺者というより、交渉などを得意とした折衝役だったのかもしれません。

ドラマでの描写もそんな感じになっていましたね。

 


房総半島の有力者・常胤を引き入れよ

安達盛長が次に登場するのは、使者を命じられた治承四年(1180年)9月4日のこと。

遡ること約10日前、石橋山の戦いで大庭景親伊東祐親らの大軍に敗れた頼朝は、舟で安房へ向かいました。

石橋山に間に合わなかった三浦氏などとも安房で合流し、頼朝は体制を立て直すため改めて味方を募ることにします。

盛長を千葉常胤和田義盛上総広常のもとへそれぞれ向かわせました。

いずれも当時の房総半島における有力者たちです。

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盛長は9月9日に戻り、常胤との交渉の様子を次のように語っています。

事の次第を告げ、頼朝様に味方するよう伝えたところ、常胤は当初発言をしませんでした。

あまりの静寂に、同席していた息子たち(胤正と胤頼)が、常胤に声をかけました。

「頼朝様が平家を討とうと志され、一番に我が家へお声をかけてくださったのに、なぜためらうのですか? 早く承諾のお返事をしなければ」

すると常胤はこう答えました。

「了承することには何の異存もない。源氏の勢力を盛り返そうという頼朝様のお志に感じ入り、言葉が出なかったのだ」

なかなか芝居がかった話のようにも見えますが、常胤には頼朝に味方する理由がありました。

千葉氏は常胤の父・千葉常重の時代に、相馬御厨(現在の茨城県南西部~千葉県北西部にあった伊勢神宮荘園)を巡って、頼朝の父である源義朝と対立しています。

しかしその後、同じく相馬御厨を巡って対立した平常澄との間に義朝が入り、最善とはいい難いながらも問題を解決。

それが常胤には恩と感じられたのでしょう。

保元の乱では義朝のもとで後白河天皇方の一員として参戦しているのです。

その後程なくして、今度は相馬御厨を巡って佐竹氏と対立した常胤は【平治の乱】には参加できません。

常胤が盛長に話した内容が事実であれば、

「平治の乱でも義朝方につきたいと思っていたものの、それが叶わなかったことを後悔していた」

のかもしれませんね。

それが今度は、義朝の息子である頼朝が協力を求めてきたのですから、感無量という気持ちになったのでしょう。

常胤は頼朝に味方することを約束し、盛長に酒を振る舞って“鎌倉”を勧めます。

「源氏にとって縁の地でもあり、守りやすい土地です。速やかに向かわれると良いでしょう。私も一族を引き連れてお出迎えいたします」

かくして頼朝は、鎌倉入りを目指すのでした。

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