こちらは4ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【安達盛長】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
頼家が息子を殺そうとしている!?
源範頼は、頼朝の異母弟。
不用意な発言で謀反を疑われ伊豆に流されてしまうのですが、問題はその妻でした。
安達盛長の娘だったのです。
為政者の世界で何かトラブルが起きる時は、妻の実家(つまり安達盛長)も関わることは多く、鎌倉殿の13人のメンバーも多くが一族まるごと処罰されていたりします。
しかし盛長に累が及ぶことはありませんでした。
この後も頼朝・頼家に仕えていて、疑り深い頼朝にしては、随分と甘い処分のようにも見えます。
建久六年(1195年)の頼朝上洛でも付き従っていますが、行列での順番からすると、やはり一御家人の域を出ていません。
元の身分や所領の少なさから、朝廷が関係するところで目立つ位置に置くわけにはいかなかった……というところでしょうか。
そして正治元年(1199年)1月に頼朝が逝去。
盛長は出家して”蓮西”と名乗り、他の多くの御家人同様、幕府に仕え続けました。
同年4月に十三人の合議制が設置され、盛長もまたメンバーに選ばれますが、これまで記載してきたように、この13人の中で最も素性がわからない人物です。
他のメンバーは
・元から関東に根付いていた武士団の一員
・頼朝以前の時代、源氏についたことがあった家
・朝廷の役人を務めていた公家出身者
なのですが、盛長だけどれにも当てはまりません。
ハッキリしているのは、
「妻の縁で、流刑時代の頼朝を支援し続け、挙兵直後から付き従った」
という点だけです。
逆にいえば、地盤や血筋が他の人より頼りないものであっても、盛長の働きぶりが周囲に認められ、人柄も信頼されていたということになります。
ただ単に頼朝から贔屓されていただけなら、やっかみも買ったでしょうし、そもそも合議制の一員に選ばれなかったでしょう。
正治元年(1199年)8月には、あまり気分の良くない、こんな事件がありました。
盛長の息子・安達景盛の妾を源頼家が気に入り、横取りしようとしたので景盛が激怒している
そんな噂が流れたのです。
頼家が本当に強奪を企てていたのなら、景盛が怒るのも無理ない話。
しかし、それがデマなら、一方的に怒る景盛も問題となります。
これに対し、頼家は先手を打って景盛を討ち取ってしまおうと考えましたが、母の北条政子に止められ、思いとどまります。
同時に、景盛に対しても言い含めました。
「昨日はなんとか頼家を止められましたが、いつ蒸し返すかわからない。噂が偽りであり、そなたに謀反の意図がないのなら、ここで誓書を書いて頼家に出しなさい」
景盛は政子の言に従って誓約書を差し出し、政子が頼家を諭したことによって、この件は収まります。
盛長は直接関係していませんが、肝が冷えたか、頼家に呆れるか、怒りを感じたかはしたでしょう。
なにせ政子が直接盛長の家に来て話していたのですから。
気性の荒い武士であれば「そもそもは噂で息子を殺害しようとした頼家様が悪いのだろう!」とキレてもおかしくありません。
そうならない辺り、やはり安達盛長は、一歩引いて状況を俯瞰できるタイプだったように思えます。
景時追放事件後に享年66で
記録上で安達盛長が最後に関与したのは、正治元年(1199年)10月から始まった【梶原景時の変】です。
吾妻鏡によると、まず阿波局から「景時があなたのことを讒言しようとしている」と告げられた結城朝光が、三浦義村(ドラマでは山本耕史さん)に相談。
義村は「宿老の力を借りるべき」と考え、和田義盛と安達盛長を呼んだ……とあります。
1160年代生まれで、この時点では比較的若い世代だった朝光や義村から見ると、この二人がまず話すべき相手と見られていたのでしょう。
将軍を辞めた慶喜は明治以降何してた?せっせと子作り&趣味に興じるハッピー余生
続きを見る
盛長が広く信頼されていたことが伝わる一件ですね。
盛長と義盛は、景時の排斥に同意し、さらに弾劾に賛同する御家人たちを募りました。
結果、署名は66人にものぼります。
盛長のような生え抜きから、義村のような次世代の人物まで。
立場も世代も様々であり、景時の人望が見え隠れしますが……この一件で景時は鎌倉を離れることになり、翌年1月20日、上洛を試みる途中で討死あるいは自害しています。
なぜ梶原景時は御家人仲間に嫌われた?頭脳派武士が迎えた悲痛な最期
続きを見る
そして景時の死から約3ヶ月後の正治2年(1200年)4月26日、盛長もまた世を去りました。
享年66。
死去時の記述や病みついていたという情報が吾妻鏡にないので、おそらく老衰でしょう。
★
その後の安達氏は、浮き沈みの激しい道をたどります。
息子の安達景盛は、息子(盛長から見れば孫)の義景に家督を譲った後、三浦氏と北条氏の争いである【宝治合戦】で後者につき、北条氏と安達氏をガッチリ結びつけました。
しかし義景の子・泰盛は、執権・北条時宗を支えつつも、内管領(北条得宗家の重臣)である平頼綱と対立。
【霜月騒動】で家ごと滅ぼされてしまうことになります。
霜月騒動は、幕府草創期から源氏に仕えてきた御家人と、北条氏の最後の戦でもありました。
当初は最も身分が低かったであろう安達氏が最後まで残っていた……と考えると、武家の生き残りの難しさや、北条氏の強大さがまざまざと浮かび上がるように思います。
あわせて読みたい関連記事
源頼朝が伊豆に流され鎌倉幕府を立ち上げるまでの生涯53年とは?
続きを見る
北条政子はどうやって鎌倉幕府を支えたのか 尼将軍69年の生涯と実力を振り返る
続きを見る
北条義時が頼朝を支え鎌倉幕府を立ち上げ 殺伐とした世で生き残った生涯62年
続きを見る
北条時政はどこまで権力欲と牧の方に溺れた?最期は子供達に見限られ
続きを見る
なぜ梶原景時は御家人仲間に嫌われた?頭脳派武士が迎えた悲痛な最期
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
『国史大辞典』
安田元久『鎌倉・室町人名辞典』(→amazon)
上横手雅敬『鎌倉時代-その光と影』(→amazon)