安達盛長

安達盛長も付き従っていた頼朝の上洛を描いた歌川貞秀『建久元年源頼朝卿上京行粧之図』/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

疑り深い頼朝に信用された忠臣・安達盛長~鎌倉幕府でどんな役割を担っていた?

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頼家が息子を殺そうとしている!?

源範頼は、頼朝の異母弟。

不用意な発言で謀反を疑われ伊豆に流されてしまうのですが、問題はその妻でした。

安達盛長の娘だったのです。

為政者の世界で何かトラブルが起きる時は、妻の実家(つまり安達盛長)も関わることは多く、鎌倉殿の13人のメンバーも多くが一族まるごと処罰されていたりします。

しかし盛長に累が及ぶことはありませんでした。

この後も頼朝・頼家に仕えていて、疑り深い頼朝にしては、随分と甘い処分のようにも見えます。

建久六年(1195年)の頼朝上洛でも付き従っていますが、行列での順番からすると、やはり一御家人の域を出ていません。

元の身分や所領の少なさから、朝廷が関係するところで目立つ位置に置くわけにはいかなかった……というところでしょうか。

そして正治元年(1199年)1月に頼朝が逝去。

盛長は出家して”蓮西”と名乗り、他の多くの御家人同様、幕府に仕え続けました。

同年4月に十三人の合議制が設置され、盛長もまたメンバーに選ばれますが、これまで記載してきたように、この13人の中で最も素性がわからない人物です。

他のメンバーは

・元から関東に根付いていた武士団の一員

・頼朝以前の時代、源氏についたことがあった家

・朝廷の役人を務めていた公家出身者

なのですが、盛長だけどれにも当てはまりません。

ハッキリしているのは、

「妻の縁で、流刑時代の頼朝を支援し続け、挙兵直後から付き従った」

という点だけです。

逆にいえば、地盤や血筋が他の人より頼りないものであっても、盛長の働きぶりが周囲に認められ、人柄も信頼されていたということになります。

ただ単に頼朝から贔屓されていただけなら、やっかみも買ったでしょうし、そもそも合議制の一員に選ばれなかったでしょう。

正治元年(1199年)8月には、あまり気分の良くない、こんな事件がありました。

盛長の息子・安達景盛の妾を源頼家が気に入り、横取りしようとしたので景盛が激怒している

そんな噂が流れたのです。

頼家が本当に強奪を企てていたのなら、景盛が怒るのも無理ない話。

しかし、それがデマなら、一方的に怒る景盛も問題となります。

これに対し、頼家は先手を打って景盛を討ち取ってしまおうと考えましたが、母の北条政子に止められ、思いとどまります。

同時に、景盛に対しても言い含めました。

「昨日はなんとか頼家を止められましたが、いつ蒸し返すかわからない。噂が偽りであり、そなたに謀反の意図がないのなら、ここで誓書を書いて頼家に出しなさい」

景盛は政子の言に従って誓約書を差し出し、政子が頼家を諭したことによって、この件は収まります。

盛長は直接関係していませんが、肝が冷えたか、頼家に呆れるか、怒りを感じたかはしたでしょう。

なにせ政子が直接盛長の家に来て話していたのですから。

気性の荒い武士であれば「そもそもは噂で息子を殺害しようとした頼家様が悪いのだろう!」とキレてもおかしくありません。

そうならない辺り、やはり安達盛長は、一歩引いて状況を俯瞰できるタイプだったように思えます。

 


景時追放事件後に享年66で

記録上で安達盛長が最後に関与したのは、正治元年(1199年)10月から始まった【梶原景時の変】です。

吾妻鏡によると、まず阿波局から「景時があなたのことを讒言しようとしている」と告げられた結城朝光が、三浦義村(ドラマでは山本耕史さん)に相談。

義村は「宿老の力を借りるべき」と考え、和田義盛と安達盛長を呼んだ……とあります。

1160年代生まれで、この時点では比較的若い世代だった朝光や義村から見ると、この二人がまず話すべき相手と見られていたのでしょう。

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盛長が広く信頼されていたことが伝わる一件ですね。

盛長と義盛は、景時の排斥に同意し、さらに弾劾に賛同する御家人たちを募りました。

結果、署名は66人にものぼります。

盛長のような生え抜きから、義村のような次世代の人物まで。

立場も世代も様々であり、景時の人望が見え隠れしますが……この一件で景時は鎌倉を離れることになり、翌年1月20日、上洛を試みる途中で討死あるいは自害しています。

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そして景時の死から約3ヶ月後の正治2年(1200年)4月26日、盛長もまた世を去りました。

享年66。

死去時の記述や病みついていたという情報が吾妻鏡にないので、おそらく老衰でしょう。

その後の安達氏は、浮き沈みの激しい道をたどります。

息子の安達景盛は、息子(盛長から見れば孫)の義景に家督を譲った後、三浦氏と北条氏の争いである【宝治合戦】で後者につき、北条氏と安達氏をガッチリ結びつけました。

しかし義景の子・泰盛は、執権・北条時宗を支えつつも、内管領(北条得宗家の重臣)である平頼綱と対立。

【霜月騒動】で家ごと滅ぼされてしまうことになります。

霜月騒動は、幕府草創期から源氏に仕えてきた御家人と、北条氏の最後の戦でもありました。

当初は最も身分が低かったであろう安達氏が最後まで残っていた……と考えると、武家の生き残りの難しさや、北条氏の強大さがまざまざと浮かび上がるように思います。


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長月 七紀・記

【参考】
『国史大辞典』
安田元久『鎌倉・室町人名辞典』(→amazon
上横手雅敬『鎌倉時代-その光と影』(→amazon

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