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【安達盛長】
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窮地に陥っていた新田義重を
頼朝一行は治承四年(1180年)10月6日、無事に鎌倉へ到着。
10月23日に初めての論功行賞が行われ、安達盛長も対象者の一人として挙げられています。が、残念ながら具体的に何をもらったのかの記載はありません。
同じころ京都では、平家から【頼朝追討令】が出されていました。
東下してくる平家軍を迎え撃つべく、頼朝は西へ向かいます。
ただし、このあたりから加熱する源平合戦(治承・寿永の乱)で、盛長の名はほとんど出てこなくなります。
次に記録が確かなのは実に9年後、文治五年(1189年)の奥州合戦。
その間、何をしていたのか?
というと、頼朝が外出する際の随行したり、頼朝に疑われた武士の間を執りなしたり……。
一言でいえば地味な役回りですが、孤独な権力者にとっては非常に重要な役どころであります。
そもそも安心できない者を伴にできるワケもなく、頼朝と御家人らがスムーズに交渉するには不可欠だったのでしょう。
一例として治承四年(1180年)12月22日、吾妻鏡に新田義重が出てきます。
義重は源義家の四男・源義国の血を引く、れっきとした河内源氏の一員で、名字からも分かる通り、新田義貞の先祖でもあります。
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彼の領地である新田荘が平家方だったこと、頼朝が挙兵したときすぐに応じなかったことから、義重は頼朝に疑われていました。
新田義重の言い分はこうです。
「頼朝様に逆らう気持ちは全くありませんでした。
しかし『既に戦が始まっているから、うかつに城を出るのは危険』と家臣たちに止められていたのです。
時期をうかがっていたところ、お呼び出しを受けたので恐ろしく思っております」
経緯を述べ、許しを請う義重。その際、盛長がフォロー役に回って上記の内容を強調して頼朝に伝え、結果、赦免されたといいます。
状況的に致し方ないとはいえ、頼朝は一度疑うとなかなか解かない傾向がありますので、義重を赦免したのは「盛長が言うならば」という理由も大きかったのではないでしょうか。
重要な行事に出番多し
話を文治五年(1189年)に戻しましょう。
同年◯月、源義経を匿っていた奥州藤原氏を攻めることが決まり、安達盛長も久々に参戦することになりました。
戦場では、盛長が預かっていた筑前房良心が手柄を立て、過去の罪を許されています。
良心は平家の血を引いていたため、壇ノ浦の後に罪人扱いされていたのでした。
盛長本人の武功は伝わっていませんので、このときも頼朝に近侍しており、前線に出ることはなかったのではないでしょうか。
建久元年(1190年)秋に頼朝が上洛した際も、盛長は大きな役目を任せられるでもなく、お供を務める大勢の御家人の一人といった順番で行列に参加。
後の合議制に加わる人々と比べると、やはり頼朝存命中の立ち位置は高くないようです。
しかし、身分と頼朝の信頼は必ずしも比例しません。
建久二年(1191年)3月に鎌倉で大火事があり、北条義時邸や比企能員邸などの重臣宅を含めた多くの家が燃えたことがありました。
このとき幕府や鶴岡八幡宮の建物も燃えてしまったため、頼朝一家は盛長邸に移り、7月まで仮住まいをしています。
また、その直後に鶴岡八幡宮の神様を仮の神殿へ移す際の儀式では、和田義盛や梶原景時と共に盛長が指揮をとりました。
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他にも、頼朝の姪の輿入れや、源実朝の儀式など。
重要イベントの多くに役目があり、ときには邸が利用されるなどして、頼朝を支えていて、やはり盛長が別格扱いされている印象はあります。
それは建久四年(1193年)8月、源範頼の追放事件でもうかがえました。
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