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【高橋泥舟】
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清河八郎と意気投合し、上洛
かように真っ直ぐな性格の高橋。
幕末には、血気盛んな若者らしく、尊皇攘夷思想にその心を燃やしていました。
そして万延元年(1860年)。
槍術の師範になった泥舟は、ある男と知り合います。
庄内藩士の清河八郎です。
新選組ファンを中心として、
「口がうまくて悪企みをするあやしい男」
という評価がありますが、ちょっと再考が必要な人物でしょう。
ただのうさんくさい男と片付けられないほど著名人と親しく交際しており、彼の魅力や交渉力は相当高かったのだと思われます。
文久2年(1862年)。
江戸幕府により浪士組が結成されると、高橋は義弟・山岡鉄舟らとともに、将軍・徳川家茂の供として京都に向かいます。
ここで清河が「将軍のためではなく、尊皇攘夷のために浪士組を集めた」と目的を述べたことで、浪士組は分裂。
近藤勇ら多摩試衛館で剣術を学んできた者たちと、水戸藩士・芹沢鴨らは「壬生浪士組(新選組の前身)」を結成するわけです。
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残った浪士組は、幕臣・鵜殿鳩翁(うどの きゅうおう)に管理を任されたもののてんでバラバラ。
泥舟が管理役として任命されると、やっとまとまるようになりました。
この上洛の際、家茂から泥舟の槍の技量について聞いた孝明天皇が、従五位伊勢守を与えたとされています。
泥舟、山岡、清河らは「壬生浪士組」が抜けたあとの浪士組を率いて、江戸に戻りました。
壬生浪士組の面々は
「清河八郎、俺たちを騙しやがったな!」
と怒っていたわけですが、泥舟と山岡は違います。
断固として、これからも尊皇攘夷を訴えねばならない――幕臣でありながら二人はそう考えていたのです。
そんな中、泥舟の家を訪れたあと、清河が暗殺されてしまいます。
同時に、幕臣でありながら尊皇攘夷を唱え、清河と懇意だった泥舟も謹慎処分。
世間の動乱から一歩身を退き、槍に打ち込む日々を送るのでした。
とはいえまったく政治に無頓着だったわけでもなく、長州征討に関しては「行うべきではない」という上書を提出しています。
将軍様のボディガード
慶応4年(1868年)。
鳥羽伏見の戦いに敗走した徳川慶喜が江戸に逃げ戻ると、泥舟も江戸城に駆けつけました。
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江戸城は大騒ぎです。
泥舟が何とかして慶喜に面会しようとしても、それどころではありません。
慶喜の方でも泥舟に会いたくてたまらなかったのですが、混乱のあまり、二人が出会えたのは十日ほど待たねばならなかったのでした。
やっと出会った慶喜に、泥舟は恭順を薦めました。
断固として徹底抗戦を主張する幕臣・佐幕派も多い中、彼が違ったのは、心情的に尊皇攘夷に近かったこともあるのかもしれません。
慶喜からこの混乱において頼られている勝海舟は、その知能をフル回転させて窮地打開策を練っています。
そして勝は、駿府の西郷隆盛のもとに向かう使者として、泥舟を指名したのでした。
「それは絶対に許さない!」
強硬に反対したのは、慶喜です。
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「伊勢(伊勢守・高橋泥舟)よ、伊勢よ! お前が江戸から去ったらば、残された無謀な者が、何をするかわかったものではない。お前のような勇者がいるからこそ、ああいう者はおとなしくしているのだ。お前が行ってしまったら、誰がこの江戸をおさめるというのか! ああ、うらめしいのはお前が二人いないことだぞ」
慶喜は、泥舟の腕前と、断固として戦うと主張する者すら抑え込む胆力を、ともかく頼りにしていたのです。
なんせ慶喜の行動は、東軍を相手に敵前逃亡しただけでなく、味方の足を引っ張るも同然の行動だったので、幕臣たちが怒るのも無理はありません。
ここで立候補し、泥舟も太鼓判を押したのが山岡鉄舟でした。
【彼が代わりに行くなら問題ない】
ということで、山岡が、西郷のところへ向かうことになるのです。
どうにも影が薄い泥舟ですが、この慶喜の頼り方からして並の人物ではないでしょう。
しかし、当時の慶喜には、他に選択肢がなかったのも確かです。
鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、戦場から遠ざかるようにトンズラ逃亡してきた慶喜のことを
このあとも、泥舟は慶喜の護衛役をつとめ、混乱の中で最後の将軍を守り抜いたのでした。
顔を担保に借金を
明治の世となってからの泥舟は、慶喜に従い一度は駿府に移りました。
その後、江戸に戻り、書画骨董のを楽しむ静かな余生を過ごすことになります。
そんな彼がピンチに陥ったのが、明治21年(1888年)山岡鉄舟の死後でした。
義兄であり、実家山岡家を継いだ鉄舟は、多額の借金を残していました。
さて、困った。
他ならぬ泥舟自身も貧しい暮らしを送っています。
金策に奔走する中、門人の一人が質屋を経営していることを思い出しました。
「1500円、貸してくれんか」
質屋の主人は驚きました。どう考えても抵当なんてないのです。
「抵当があれば貸します。何があるんですか?」
「この顔でござる。もちろん私は返済するつもりではありますが、死生とははかりがたいもの。もしもというときは、熨斗をつけて私にくださらんか」
主人は呆気にとられましたが、天下の高橋泥舟がまさか踏み倒すつもりもないだろう。
おもしろい方だと感心し、1500円を貸してくれたとか。
彼の人徳、勝が「馬鹿正直」と評価した性格がプラスに働いた、というところでしょうか。
槍一筋の生き方に爽快感
そして明治36年(1903年)。
山岡鉄舟の死から15年後、勝海舟の死から4年後に、泥舟も死去。
享年69。
勝海舟をして「あれほどの馬鹿正直は最近いない」と言わしめた高橋泥舟。
策謀が渦巻く幕末において「馬鹿正直」に生き抜いた、槍一筋の生き方は爽快感があります。
活躍自体は他の二舟より低く、一番影が薄いと言われたりもしますが、慶喜が「お前がいなければどうしようもない」と嘆いたほど武勇もカリスマもあった人物です。
彼もまた、一流の男であったのでしょう。
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【参考文献】
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
安岡昭男『幕末維新大人名事典』(→amazon)
『国史大辞典』
他