寺田屋事件(寺田屋騒動)

幕末・維新

薩摩の惨劇・寺田屋事件(寺田屋騒動)はなぜ起きた?久光vs新七

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生存者にも過酷な処分

この事件で投降した中には、例えば西郷隆盛の弟・西郷従道や、あるいはイトコの大山巌など、のちに活躍した者も多数いました。

投降
・有馬休八
・伊集院直右衛門(兼覚、西郷隆盛最初の妻・須賀の弟)
・岩元勇助
・大山弥助(巌・西郷のイトコ)
・岸良三之介
・木藤市助(市之介)
・是枝万助(柴山矢吉)
・西郷信吾(西郷従道・西郷の弟)
・坂元彦右衛門
・篠原冬一郎(国幹)
・柴山龍五郎
・谷元兵右衛門
・永山弥一郎
・橋口吉之丞
・林正之進
・深見休蔵
・町田六郎左衛門
・三島弥兵衛(常庸)
・森新兵衛(真兵衛)
・吉田清右衛門
・吉原弥二郎

逃亡
・美玉三平(平野国臣「生野の変」に参加し死亡)

鹿児島に連行された他藩士・浪人
・海賀宮門(秋月藩士)
田中河内介(中山家諸太夫、公家の侍)とその子・瑳磨介、甥・千葉郁太郎
・青木頼母(浪人)
・中村主計(浪人)

『不憫だなぁ』と思わざるをえないのが、連行された6名です。

彼らは保護と称して「日向送り」処分となりました。要は、処刑されたのです。

護送中、田中父子は船内で斬殺され、死骸は水中に投げ捨てられました。

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残り3名は、大木に縛り付けたうえで斬殺されるという、悲惨な扱いです。

彼らの遺体は殺害場所の現地住民によって葬られ、ひっそりと弔いを受けてきたと伝わります。

実は田中河内介は、明治天皇の出生を自らの資金(や借金)でまかない、幼き頃の教育係まで請け負った人物です。

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よろしければ本稿の末尾に【関連記事】がございますので、そちらをご参照ください。

 

もう一人の犠牲者

切腹に至った二人。

・田中謙助
・森山新五左衛門

そのうち森山新五左衛門に注目してみたいと思います。

事件当時、新五左衛門は側に刀がなく、脇差で抵抗しただけでした。

もしその場で何もしなければ、卑怯者と呼ばれたかもしれません。新五左衛門は、抵抗する以外なかったのです。

しかし、そんな弁明が通じるはずもなく――新五左衛門は、切腹を命じられました。

新五左衛門は大柄な美丈夫でした。

全身に傷を負い、衰弱しておりながらも、鹿児島の方を向きました。

そしてそのまま、立派な態度で腹を切ったのです。

そんな彼の姿を見て、検分役も涙したと伝わります。享年20。

「商人出の武士じゃっでこそ、本当の武士よっか武士らしゆあらねばならぬ」

新五左衛門の脳裏には、そんな父・森山新蔵の言葉があったことでしょう。

森山家は、藩に対して多額の貸し付けを行い、その見返りに50石の武士として取り立てられた家柄です。

商人あがりと言われないためにも、武士より武士らしくあれと、新五左衛門は父から厳しく言われて育ちました。

そしてその言葉通り、武士として戦い、そして武士として恥ずかしくない死を遂げたのです。

息子の処分を、父・新蔵は鹿児島・山川港に係留した船内で聞きました。新蔵は罪人の身内として、上陸を許されなかったのです。

我が子の立派な最期を聞き、新蔵は涙すら流さず、「我が子ながら見事じゃった」と喜んでいました。

処分を待つため傍らにいた西郷隆盛と村田新八は、痛ましい気持ちで新蔵を見守るほかありません。

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それから数日後――。

西郷と村田が船を離れていたわずかな間に、新蔵は腹を切っていました。遺書はなく、辞世のみがそこに残されていました。

長らへて 何にかはせん 深草の 露と消えにし 人を思ふに

享年40。
商人あがりと言われた森山父子。

その最期は、武士よりも武士らしいものでした。

我が子のあとを追った新蔵は、寺田屋事件もう一人の犠牲者でありましょう。

 

事件の結果どうなった?

「寺田屋事件」において、自藩の者であっても、断固とした処断を下した島津久光

京都において、その果断は高く評価され、声望を高めました。

その陰で、犠牲者たちは苛烈な扱いを受けました。

薩摩藩士はまだましで、他藩や浪人の殺害は凄惨極まりないと言えます。

中でも公家に仕えていた田中河内介の日向送り(殺害)は、西郷にとってショックでした。

「もう"勤王"の二文字を唱ゆっこたあでけん」

そう嘆いたそうです。

幕末という激動の時代、凄惨な事件の一ページ。

それは薩摩藩にとって、思い出すのも忌まわしい、暗く哀しい事件でした。

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事件の経過そのもについての詳細等は、

・明治天皇の教育係だった田中河内介

・鎮撫使であった「大山格之助(大山綱良)」

・事件の首謀者「有馬新七

以上の伝記でご覧ください。

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文:小檜山青

【参考文献】
国史大辞典
桐野作人『さつま人国誌 幕末・明治編』(→amazon
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon

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