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【渋沢栄一の妻・千代】
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京都やパリでの栄一は……
さて、ここで千代が堪え忍ぶ一方、夫の栄一が京都で何をしていたのか?推理してみましょう。
彼自身は。一橋家の黒川嘉兵衛から女を斡旋されても「禁欲を貫きたい」と断ったと語り残し、千代宛への手紙にも「女狂いはしていない」と記しています。
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しかし、この「女狂い」の範囲が現代とはまるで違う。
江戸時代とも明治時代とも違う。
幕末志士ルールのものだということは考えましょう。
実家から路銀(旅費)として金をたっぷりもらい、若い栄一と喜作が京都を目指す。となれば、当然のことながら女遊びはしたと推察できます。
江戸時代は人が集まる場所には必ず色を売買する場所がありました。
伊勢参り名目ならば、宿屋にはそういう女性がいます。金がある限りは遊んだとみなした方が妥当でしょう。女遊びすらできないと嘆くことはあったとしても、それはただの金欠だということでしかありません。
新選組と女をめぐってトラブルがあったという話も、おもしろおかしく語り残しています。
そんな本人の証言以外に、状況証拠があります。
栄一はそのあたりを言いにくい事情があるため隠してはおりますが、京都時代は天狗党の藤田小四郎と「畏友」と呼び合うほど親しくしています。
伊藤博文の塙次郎忠宝暗殺の件も、栄一は真相を知っています。
要するに、京都では天狗党ら水戸学の仲間と長州藩尊王攘夷志士は同志として交流していたのです。
栄一は伊藤博文や井上馨の影響で女遊びにのめり込んだという旨の弁解をしています。それは明治からではなく、幕末でもそうだったのでしょう。
こうした志士は、酒と女でどんちゃん騒ぎをしてから、テロの相談をすることがお約束。むしろこの状況で遊ばなかったわけがありません。
彼らは感覚が麻痺していた。
「女狂い」とは、四六時中、特定の女のこととだけで頭がいっぱい、それこそ楊貴妃に溺れた玄宗状態でもなければあてはまらないということ。プロの女性と一晩過ごしたような話はノーカウントなのです。
そしてそんな栄一は、パリでもマドモアゼルにぼーっとしておりました。
幕末の日本人が、トンビ鼻だの文句をつけたのは、あくまで男のみ。ものすごい美女がいたと、来日外国人を眺めていた記録は残されています。
パリでの栄一は、「西施や楊貴妃に勝るとも劣らない!」とフランス人美女を大絶賛。
街を流しているプロの女性と情けを交わし、日本に連れて帰って好みのタイプにしたいと真剣に考えたこともありました。これは相手が取り合わなかったそうですが。
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幕末から明治の志士たちが、国のことだけを考えていただけではないことは明かされています。
明治時代、薩長中心のアメリカ留学生たちは、現地で日本人同士で固まって暮らし、しかもそうしたいかがわしい施設に入り浸るため、悪い評判がたちました。業を煮やした政府は帰国命令を出したのです。
女遊びもせず、極めて真面目に勉強していた山川健次郎は、学友の母が学費を出したための留学を続行できております。
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会津出身の山川は、だらけきらない真面目さを期待されて留学した、少数の負け組枠でした。
要するに、よく遊び、さして学ばない……それでも許される堕落の兆候すら明治初期にはあったのでした。
妻妾同居の渋沢家
幕末の動乱を切り抜けた栄一とと千代たちは、新しい世を迎えました。
困窮する幕臣もいる中、栄一は安定した暮らしを迎えます。駿府に迎えられた千代と子どもたちは穏やかな日を過ごしたのでしょう。
しかし、それも栄一が大蔵省に出仕するまでのこと。
夫が大阪へ向かうとなるとまたも千代は見送るしかありません。
それから時は流れて明治11年(1878年)――栄一と千代夫妻は東京に新居を構えたました。
この家に別の女性もやってきました。
妾のくにです。
大阪に滞在中の栄一は、現地でくにを妾とし、子を産ませ、東京に戻る際に連れてきたのでした。
つまり、妻妾同居となったのです。
これは流石に明治時代であっても、異常な状況でした。妾がいることはあるにせよ、別居とする、つまり妾宅(しょうたく)に通うことが一般的であったのです。
妻妾同居の例がないわけでもありません。
栄一が仕え、敬愛していた徳川慶喜も、静岡で妻妾同居の生活を送っています。
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つまり、近代的な家庭観からすれば異常であっても、封建的な後宮システム、つまりは大奥のようなものとすれば異常ではないということになります。
ただ、それは将軍であった慶喜ならば通じるにせよ、渋沢栄一に適用するには無理があるとは思えるのですが。
自宅に小さな大奥を持つまで出世したとするのであれば、これぞまさしく夢の体現者と言えなくもありません。
その様を大河ドラマで描いたとして、現代の視聴者が納得するかどうかは別の話ですが。
良妻賢母を失って
明治15年(1882年)7月14日、千代は世を去りました。
当時、コレラが流行しつつありました。渋沢家は感染を避けるため、飛鳥山の別荘に移ります。
しかし千代は13日に発病し、そのまま意識を失い、一流の医師たちが賢明の看病をしたにもかかわらず、二人の娘と一人の息子を残し、息を引き取ったのです。
享年41。
伝染病であるため、我が子ですら息を引き取る母を看取ることもできず、即座に火葬にされるという、悲しい別れでした。
それでも棺におさめられたその顔は、神々しいほど美しかったと回想されています。
厳しく、強気で、我が子や周囲のものたちにも畏れられていたという千代。
夫の栄一が飛翔できたのも、千代あってのことでした。
しばらくは呆然とし、何も手につかなかった栄一。それほどまでに千代に愛があったのでしょう。
とはいえ、いつまでも亡妻への愛に浸っているわけにはいかなかったのでしょう。
明治16年(1883年)には縁談が持ち上がり、その2年後には妊娠中の伊藤兼子と正式に再婚しています(兼子については以下に別の詳細記事がございます)。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
鹿島茂『渋沢栄一』(→amazon)
土屋喬雄『渋沢栄一』(→amazon)
芳賀登『幕末志士の世界(江戸時代選書)』(→amazon)
他