西郷と沖永良部島

沖永良部島の田皆岬(たみなみさき)

幕末・維新

西郷2度目の流刑「沖永良部島」はどんな生活?なぜ薩摩へ戻れた?

徳川将軍の継嗣問題から発展した【安政の大獄】。

その圧迫から逃れるようにして月照と錦江湾に入水し、結果、一人生き残った西郷隆盛は、藩から奄美大島への流刑を言い渡されます。

西郷隆盛
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島での生活は、吉之助にいっときの休息をもたらしました。

2番目の妻・愛加那との間に、西郷菊次郎と菊草が誕生したのです。

一男一女と南国の温暖な気候に恵まれながら1862年、ついに政務へと復帰するのですが……。

奄美大島での西郷隆盛
奄美大島で「狂人」と呼ばれた西郷~現地でどんな生活が待っていた?

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すぐさま彼は二度目の流刑処分となります。

一体何が起こったのか?

次なる徳之島&沖永良部島での生活はどんなものだったのか。

 

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西郷の復活

2018年度大河ドラマ『西郷どん』における西郷は、奄美大島での生活をエンジョイ。

復帰を目指していない設定でしたが、史実は真逆でした。

※以下は流刑地(1度目が黄色の奄美大島で、2度目が赤の徳之島と沖永良部島)で沖縄のすぐ北にあります

奄美大島では愛加那という「島妻(あんご)」がいたものの、彼女の存在は西郷の野心を止めるブレーキとはなりません。

彼女との関係はあくまで一時的なものであり、西郷の書状には「使用人」扱いしているものすらあります。

西郷が、人の目を気にせずに愛撫するほど、熱愛したという愛加那。

その一方で、彼は冷静に割り切っていました。冷たく思えますが、現代人の目線から、その行動を批判することは難しいでしょう。

西郷の願いは、文久2年(1862年)に叶うこととなります。

西郷と親しい大久保一蔵(利通)が、島津久光に接近。

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島津久光
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その助力を得て、西郷の復帰を叶えたのです。

西郷と大久保らが率いる「精忠組」にとって、やっと【俺たちのターン】が始まったといえました。

ただし、ここで注意したのは、島津久光が家臣のいいなりになる無力な君主ではないということです。

その辺りは、過激な松下村塾生に引きずられていった長州藩とは違うところ。

【精忠組】がいかに権力を握ろうとも、あくまでそれは久光のコントロールあってのものでした。

精忠組(誠忠組)
西郷や大久保を輩出した精忠組(誠忠組)目をかけたのは久光だった

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島津久光上洛計画

『西郷どん』では島津斉彬との対比で「賢兄愚弟」として描かれている島津久光。

実際には胆力と頭脳を備えた優れた政治家であり、のちに彼と面会したイギリスのハリー・パークスは、久光こそ日本でも最も優れた政治家と評価しております。

ハリー・パークス
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史実の久光の事績をたどると、それも納得ができるものでして(詳細は以下の記事にございます)。

島津久光
西郷の敵とされる島津久光はむしろ名君~薩摩を操舵した生涯71年

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父と兄の死後、政治の表舞台に立った久光には、ある計画がありました。

兵を率いて上洛。

かつて兄・斉彬が属していた一橋派の政治復帰を目指す――政治改革を幕府に迫るものでした。

そこで久光は、兄の懐刀として活躍した西郷を呼び戻し、意見を求めたのですが……。

西郷は、爆弾発言をしてしまいます。

久光に向かって

「地ゴロ」(田舎者)

と言ってしまうのです。

それでも久光は、堪えました。

内心、凄まじく腹は立ったでしょうが、国父としての度量を意識したのかも知れません。

問題は、その後でした。

 

久光の激怒

島津久光の上洛を受け「精忠組」でも過激な一派が暴走。

久光の命令と朝廷の意に背いたとして、処断される事件が発生します。

寺田屋事件】です。

これにて「精忠組」は大打撃を受けました。

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大暴走が起こる前、大久保は人望のある西郷を呼び寄せ、引き留めてもらおうと考えていました。

そこで西郷は待機命令を無視して、下関、さらには大坂に向かいます。

この無断行動が久光の耳に入ってしまうのです。

ただでさえ「地ゴロ」と軽んじられていた久光は大激怒。

もはや切腹させるしかないと、西郷に怒りをぶつけます。

西郷は釈明の機会も与えられないまま、二度目の流刑地へと向かうこととなったのでした。

 

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あまりに厳しい処分

奄美大島の流刑と比べ、第二次流刑は格段に環境が悪くなりました。

久光からすれば、「切腹でないだけありがたく思え」なのでしょう。

まず、留守家族が厳しい目にあいます。

二男・西郷吉二郎、四男・西郷小兵衛は「勤方差控」から遠慮処分。

三男・西郷信吾(西郷従道)は、「寺田屋事件」に連座したため、謹慎処分。

知行と俸禄と家財が全没収されるという、あまりに厳しい処遇です。

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島へと向かう護送船の中、西郷は一睡もせずに座りっぱなしでした。

寺田屋騒動の連座者である田中河内之介らは、護送中に惨殺されています。西郷自身も、暗殺を警戒していたのです。

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沖永良部島にたどりついて便所に入ったとき、やっと西郷は安心したそうです。

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