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【吉田稔麿】
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吉田稔麿:元治元年(1864年)「池田屋事件」にて殺害、享年24
杉山松助:元治元年(1864年)「池田屋事件」にて殺害、享年27
久坂玄瑞:元治元年(1864年)「禁門の変」にて自刃、享年25
高杉晋作:慶応3年4月14日(1867年)病死、享年27
前原一誠:明治9年(1876年)、「萩の乱」により刑死、享年42
入江九一:元治元年(1864年)「禁門の変」にて戦死、享年28
寺島忠三郎:元治元年(1864年)「禁門の変」にて自刃、享年21
なんと、7人中6人が明治維新を見ることなく、しかもそのうち5人が元治元年(1864年)に死亡しております。
中でも優秀だった二人が散った池田屋事件。
長州藩としては、貴重な人材を失った事件だと改めてわかります。
では、こんな濃いメンツの中でも、最も優れていたという吉田稔麿(よしだとしまろ)はどんな人物だったのか。
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「松下村塾」四天王
「松下村塾」で吉田稔麿は、高杉晋作、久坂玄瑞の次に優秀で「三秀」とも称された若者でした。
もう一人、入江九一を加え「四天王」ともされます。
吉田は天保12年(1841年)、長州藩の士雇(さむらいやとい・準士)である吉田清内の長男として生まれました。
幼い頃、近所に引っ越して来た伊藤利助(のちの伊藤博文)とは幼なじみで、ともに学び、遊んだ仲です。
嘉永6年(1853年)、父のあとについて江戸に勤めた吉田は、おそるべき事態に出くわします。
黒船来航です。
数え13才の若さで黒船を目の当たりにした吉田は、このままでは国が危ういと、攘夷思想に目覚め、安政3年(1856年)に帰藩すると、吉田松陰の松下村塾へ入塾。
たちまち塾生の中でも頭角を現すのでした。
師の松陰とも良好な関係を保っていた吉田でしたが、しかし、これは長続きしません。
政治情勢に失望した松陰は、老中・間部詮勝の暗殺を計画するなどの暴走を始め、吉田も距離を置き、ついに絶縁してしまうのです。
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師の松陰が江戸に送られるとき、遠くからそっと見送るほかありません。
そしてそのときの姿が、師弟にとっては永別となるのでした。
攘夷でアピールする若者たち
師である吉田松陰の死後。
「松下村塾」出身者たちは師の遺志である攘夷を掲げ、活動に乗り出します。
吉田も、その一員として加わりました。
このあたりの経緯は、吉田の同志である久坂玄瑞の記事とあわせてご参照いただければ幸いです。
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実のところ、久坂といい吉田といい、若さあふれる彼らの行動は、島津久光が先導する薩摩藩のような老獪さに欠けておりまして。
大々的に挙兵し、上洛を果たしてアピールするような、そういうパフォーマンスが長州藩にはできません。
凄惨な同士討ちとなった薩摩の内紛【寺田屋事件】も、
【ルール違反者は、たとえ同じ藩士であっても処断する】
そんな断固たる姿勢として、周囲からは評価されていたのです。
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しかし、この成功を受け、アピールのために危険行動を取るグループが現れました。
京都で攘夷を叫びながら暗殺事件を繰り返す、武市瑞山率いる「土佐勤王党」。
そして長州藩の「松下村塾」出身者を中心とした一団です。
彼らは、外国船への砲撃というかたちで、自己アピールに走ります。
確かに胸のうちには情熱があったのでしょう。
一人一人の若者たちは、純粋な理想に燃えていたはずです。
ただし、彼らのしたことが理にかなっていたのか? 正しかったのか? 本当に日本のためになったのか?
それについては個別に考える必要があると思われます。
小倉藩からのSOS
文久3年(1863年)、小倉藩から幕府に救援要請が入りました。
「助けてください! 長州藩が、下関海峡を越えて勝手に攘夷用砲台を建設しようとしています!」
他藩の所領に出向いてまで砲台を設置するなど、明らかに度を越した行動。
一体どうした?
というと、これまた詳細は久坂玄瑞の記事にあるのですが、ともかく当時の長州藩は自らで攘夷をするだけでは飽きたらず、隣の小倉藩にまで強いようとしたのです。
そこまでエスカレートした理由は次の通りです。
薩摩藩や、「京都守護職」に就任した会津藩。
彼らの台頭に対して、長州藩は焦りを感じておりました。
挽回するためには、より先鋭化した攘夷が必要だということで過激化したのです。
しかも、朝廷に攘夷活動を報告したところ「褒勅」(天皇直々のお褒めの言葉)が出されたのですから、ますます拍車がかかります。
幕府は、こうした長州藩の行動を異常なことと認識し、詰問使・中根市之丞を乗せた蒸気船「朝陽丸」にを乗せて長州へ派遣しました。
長州藩としても、幕府との揉め事は避けたいところ。
将軍の親書を受け取ろうとしたのですが……。
「なんで、攘夷を真面目にやらん幕府の言うことを聞かにゃあならんのじゃ!」
一部の過激な奇兵隊士がそう激怒。
「ええことを思いついた! 攘夷をやらん幕府にかわってあの船を乗っ取り、わしらで使うちゃろう」
思うが早いが奇兵隊士200名は、なんと「朝陽丸」を占拠してしまったのです。
そのころ幕府の使者は、長州藩から丁寧なおもてなしを受けていました。
そこへ、占拠の報が入ったのですからたまりません。
藩の上層部は焦って奇兵隊を説得しようとします。
若い連中は聞く耳を持たないどころか、ますます暴れて、手が付けられない状況に陥ってしまいました。
ついに奇兵隊士は、幕府の使者を襲撃し暗殺。
幕府の使者である中根は襲撃から逃れたものの、直後に追ってきた刺客に殺されてしまいました。
暴走と呼ぶにしては計画的 その背景にいたのが……
この事件の背後で、暴走奇兵隊士に指示を出していた――というのが吉田稔麿です。
確かに暴走と呼ぶにしては計画的な凶行です。
キレ者が糸を引いていたとしても不思議ではないでしょう。
長州藩の若者たちは気勢を上げます。
「不真面目で、攘夷をしない幕府にかわり、攘夷という大正義を行う自分たちは正しい!」
彼らが、自らの姿勢に酔っていないか? と問われたら、これは否定しがたいものがありましょう。
実際、この年、京都では、とある人物が長州藩の行動に対し激怒していました。
吉田らが忠義を尽くしていたはずの孝明天皇です。
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「大和行幸」の計画が勝手に立てられたことを契機に天皇の怒りが爆発。
「朝陽丸」の一件についても怒っていました。
確かに孝明天皇は外国人嫌いではありました。
しかし、それと同時に争いは好まぬ穏やかな性格であり、幕府と強調して歩む「公武合体」の賛成派でした。
何かと言えば幕府に刃向かいたい、長州藩の過激派や倒幕派とは気が合うわけもなかったのです。
ではなぜ、長州に勅(天皇からの命令)がくだされていたのか?
すべては三条実美ら過激派公卿による勝手な行動でした。
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孝明天皇は、こうした偽勅ラッシュに我慢の限界が訪れていました。
そんな天皇の意を受け、実行されたのが長州藩を京都から追い出す【八月十八日の政変】でした。
苦しい現実逃避と募る憎悪
自分たちが武器としてきた「勅」で、今度は京都を追われてしまった長州藩。
元治元年(1864年)、孝明天皇は追い打ちをかけるように【宸筆の勅旨】を出し、徳川家茂らに自らの意志を伝えました。
無謀な攘夷をしろと言っていない。
攘夷のどさくさに紛れて幕府を倒すとか考えるとは、こんな凶暴な連中は絶対に許せない。
こんなことを考えるのは、考えの浅い卑怯者のすることだ。
罰を受けるべきだ。
として宸筆の勅旨を出したのです。
天皇直筆の強い命令でした。
この宸筆の勅旨の下書きは薩摩藩が作りました。
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