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【吉田稔麿】
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ゆえに長州藩は
「ありゃ薩摩に騙されたのであって、天皇の真意じゃない」
と言い逃れをするわけですが、前後の行動を見ると、天皇の真意ど真ん中ではないでしょうか。
自分たちと天皇の思いは一致していたはずだと信じてきた長州藩士たち。
その天皇から激怒をぶつけられたことを、どうしても信じたくなかったようです。
彼らは、いわば現実逃避をしたのですね。
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薩摩がイギリスと仲良くなって激怒
むろん、正面切って天皇に怒りをぶつけるわけにもいきません。
そこで彼らが持ち出したのが「君側の奸」論でした。
要は、天皇をたぶらかせる悪い連中がいる、というワケで、薩摩藩と会津藩が敵対視されたのです。
長州藩における、薩摩藩への感情は複雑です。憎むだけではなく、シンパシーも抱いていました。
文久2年(1863年)。
薩摩藩では生麦事件からの薩英戦争という、イギリスとの対立を起こしておりました。
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長州藩は、当初この知らせに喜びました。
「わしらだけじゃない、攘夷をしちょる者は他にもおるんじゃ!」
実は薩摩藩ではかなり前、島津斉彬の父である島津斉興の時点で「攘夷は無理、開国する」と決めておりました。
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生麦事件は、あくまで突発的なもので一連の事件はアクシデントなのですが……長州側としては仲間が出来たと喜び、慰問状まで送ったとか。
しかしこの後、薩摩がイギリスと手を組んだと知って、長州側は激怒します。
「攘夷をしちょると思うたそに、うわべだけじゃったたぁ! 卑怯な連中じゃ、許さん!」
よくも騙したな、というところでしょうが、薩摩としては
「わいはないをゆちょっど? 勝手に同情して、勝手に失望して、おいん知ったことじゃなか」
といったところですかね。
ともあれ、長州藩の怒りは滾るわけです。
さらに会津藩では、長州藩からの弁明を孝明天皇に取り次ごうとはしません。
「弁明を聞いて貰うことすら許さん、憎い会津め!」
会津藩側としては、孝明天皇への忠義第一で取り次がなかったのかもしれません。頑固な気質もあったかもしれません。
しかし、そんなことは長州藩には通じないわけです。
後に会津藩が朝敵認定された際、仙台藩は『なぜそれを取り消せないのか』と訝しみました。
「あのとき、会津は弁明の機会を与えなかった。今度はわしらが会津からその機会を奪うちゃる」
というのが、長州側の言い分です。
このドロドロした憎悪のスパイラルは、多くの人々の運命を暗い方向へと引きずってゆくのです。
急転直下する運命
幕府内では「罰長論」が出てきます。
そろそろ長州を本格的に罰するべきだろうという判断です。
しかし、旗本・妻木頼矩(向休)などは、慎重論を唱えました。
吉田はこの妻木と江戸にて話し合い、老中・板倉勝静に対して長州藩の立場を弁明します。
しかし、この周旋は不発。妻木は吉田に対して、長州藩はもう少し行動を抑えるべきだと説きました。
さすがに吉田もこれには同意します。
実はこのころ長州藩内では「進発派」と呼ばれる強硬派が台頭しておりました。
これに気を揉む吉田としては、ソフトランディングを望んで「割拠論」を提唱。
敵はまとまりを欠き、いずれ自滅だろうから、それまで悠々と待つべきだ、というものです。
結果的に長州藩では、吉田に幕府宛ての嘆願書を託すことになります。
贈答品を携え、京都へと向かった吉田。
このころ将軍・徳川家茂は上京しており、京都におりました。江戸まで向かわずとも、託すことができたのです。
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しかし、ここで思わぬ事態が起こります。
孝明天皇は、当時の懸案事項であった政治問題の処理を幕府に一任すると決めました。
つまり長州藩の運命は幕府に託され、タッチの差で、長州藩は危機に追い込まれたのです。
しかもこの年、無謀な攘夷をとりやめなければならない年貢の納め時がやってきます。
【下関戦争】です。
イギリス・フランス・オランダ・アメリカを相手に無謀な戦いを挑んだ長州藩は、圧倒的な戦力差で敗北。
攘夷に失敗するだけでなく、京都を追われ、弁明の機会もなく、さらには幕府の手に命運を握られてしまう――という窮地に陥るのでした。
※下関戦争は1863年と1864年8月(旧暦)の二度に渡って行われ、その間の1864年6月(旧暦)に池田屋事件は起きております(誤解のある書き方で申し訳ありません)。
長州藩にとっては、最悪の展開です。
吉田は京都に留まり、しばらく様子を見ることにしました。
自分の命があと僅かであるとは夢にも思わず、彼は京都の夏を満喫していたのです。
運命の夜
元治元年6月5日(1864年7月8日)。
旅籠「池田屋」に同志が集まっていました。池田屋の主人は、攘夷派に好意的だったのです。
そこへ、新選組が踏み込んだのは四ツ時(午後十時半)。
「御用改めでござる!」
もし一日事件が遅かったら?
おそらく稔麿はこの会合にはいなかったと思われます。旅支度をしていたからです。
稔麿は池田屋にはいなかった、という説もあります。近藤らが乗り込む直前に出て、長州藩邸に向かう途中で斬られたという内容です。
さらには、加賀藩邸に向かう路上で、多数の会津藩兵から尋問を受け、口論の末に殺害されたという目撃談もあります。
一致しているのは、池田屋の内部ではなく、外で亡くなっているということです。
稔麿は池田屋事件の犠牲者でも知名度が高いため、その死も潤色されました。
長州藩邸で自刃した、手槍を持って沖田総司と戦ったという話もありますが、おそらく創作でしょう。
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吉田稔麿作とされる辞世もありますが、状況的に作ることが可能であったとは思えません。
明治時代以降の創作説が濃厚です。
事件当日、旅支度をしていた吉田稔麿。
もし一日事件がずれていたら、この国の歴史は変わっていたのかどうか……。
脱出できたとしても「禁門の変」で
松下村塾生は、前述の通り死亡率が高いです。
この事件を切り抜けたとしても、死亡した可能性は低くはない。
吉田は当時、性病に罹患していたことが書状からうかがえまして、病死の可能性も否定できません。
ゆえに品川弥二郎の言葉が真実であったかどうかも、判断できない。
ハッキリしているのは、「池田屋事件」が深刻な人材喪失の場であったということです。
新選組が武功を立て、後世の人々の胸を踊らせる活劇を繰り広げる中、様々な可能性を持った人々が命を落としました。
あの事件には、そういう一面もあるのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
一坂太郎『吉田稔麿 松陰の志を継いだ男』(→amazon)
『国史大辞典』