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【永井尚志】
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朔平門外の変
尚志は雌伏のときを過ごします。
熱烈な攘夷を唱える斉昭の同類とみなされたからこその不遇なのに、世間ではこうささやかれます。
「永井は夷狄と交渉した邪智奸佞の者だ。ゆえに天罰が当たったのである」
誤解ゆえに悪評がふりまかれる宿命は、このときからつきまとっていたのでした。
耐え忍ぶ尚志をよそに、世間は流転してゆきます。
万延元年(1860年)に【桜田門外の変】で井伊直弼は討たれ、その半年後に斉昭が急死。
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外交交渉で行動を共にし、漢詩贈呈をしあっていた岩瀬忠震も文久元年(1861年)に世を去るのでした。
文久2年(1862年)頃になると、一橋派への処分も徐々にゆるんできます。
京都町奉行に任命され、表舞台に戻ってきました。
このころ、京都はとてつもない状態でした。
一橋派の有力者であった島津斉彬は世を去り、弟・島津久光が藩主父(国父)として京都へ。
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政治力抜群の大久保利通や西郷隆盛らが背後に控え、権力を握ろうとする。
しかも街には尊王攘夷を掲げ、テロリズムに飢えた志士たちがうろつく有様です。
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そしてこの先、永井尚志の人生は、慶喜のために尽くすものとなります。
文久3年5月20日(1863年7月5日)に【朔平門外の変】――そう呼ばれる事件があります。尊王攘夷をとなえる公卿・姉小路公知が暗殺されたのです。
京都で攘夷テロは日常茶飯事と化しておりましたが、こと大物の公卿殺害となると只事ではありません。
容疑者とされたのは、薩摩藩士・田中新兵衛でした。
田中も【幕末四大人斬り】の一人でありますが、他の者(岡田以蔵・河上彦斎・中村半次郎=桐野利秋)と比較するとそこまで犠牲者の数は多くはない。
このことからも田中による公卿殺害事件のインパクトがわかるでしょう。
そして、この取り調べにあたったのが他ならぬ永井尚志なのですが……。
取調べ中に田中が自害してしまい、真相は闇の中に葬られてしまいました。
もともと開国派として評判が悪かった尚志は、不運にも犯人自害の防止失敗を糾弾され、閉門処分となってしまうのです。
しかし幸か不幸か、ほどなく尚志は政務復帰を認められます。
任ぜられたのは参与会議大目付。そしてこの参与会議が程なくして行き詰まるのです。
一会桑政権
当時、島津久光は卓越した手腕で孝明天皇の信任を集めました。
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慶喜はそれが気に入らなかったようで、感情的に衝突。
ついには宴席で酒に酔って久光を罵倒し、参与会議は瓦解してしまうのです。
巻き返しをはかる慶喜は久光排除を徹底すべく、【一会桑政権】を形成します。
病弱な京都守護職・松平容保は、久光のような政治力は乏しいものの、誰しも褒め称えるうるわしい性質と生真面目さがあります。
それゆえ孝明天皇の信任を勝ち得ていました。この親愛に乗っかろうと慶喜は画策したのです。
しかし、そのことが己と江戸幕府の首を絞めることとなるのですが……それは先の話。
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【禁門の変】
と長州排除の動乱が続く中で、慶喜は勝利をおさめます。
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そしてこのあと、ターニングポイントが訪れるのでした。
長州藩詰問使として
元治元年(1864年)孝明天皇は、長州に怒りを募らせます。
さんざん偽勅を用いて好き放題やらかしただけでも度し難いのに、【禁門の変】では御所を砲撃し、我が子を怯えて泣かせ、京都を大火事にした。
孝明天皇は鉄槌を下すべく、長州征討を迫ります。
慶喜はじめ幕府は、この一件でどれほど困惑したでしょう。
それまで天皇を己の権力の担保として使ってきたのに、それがかくも大きな力を持つとなると、困り果てるしかない。
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永井尚志は長州藩詰問使として広島へ向かいます。
そこで長州藩は三家老の首を出し、藩主父子の罪を認め、山口城を破却、都落ちをしていた五卿(七卿のうち一人は死亡し、一人は脱走)の引き渡しを承諾しました。
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一応は目的達成となりますが、幕府は永井尚志の免職を決めます。
総督は徳川慶勝であったものの、御三家を処断するには重い。尚志にどういうことかと問い詰めようとしたのです。
尚志は病気としてこれを拒否し、辞職するしかありません。
当時の幕閣にはキナ臭い空気が漂っていました。慶喜に疑惑が募っており、それゆえ尚志も疑われたともいえます。
幕閣が慶喜に疑いの目を向けたのには理由がありました。
天狗党の乱です。
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水戸藩から蜂起した一派が京都を目指して西上、幕府が討伐軍を出すほどに発展したこの大騒動。
慶喜は、朝廷と天皇に願い出て追討軍を出し、厳しい処断で天狗党を壊滅させますが、そもそも水戸藩出身の慶喜が潔白とも言い切れない。
江戸を無視して好き放題にしているのもおかしい。
果たして慶喜を信じてよいものか?
慶喜が後見職を務める14代将軍・徳川家茂すら、不信感を募らせていました。
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家茂は自らが幕政を行えず、朝廷の口出しに辟易とし、江戸へ戻ろうとしたことすらありました。それを慶喜と松平容保が説得し、ようやく京都に戻らせる有様です。
長州征討軍の瓦解
長州征討は、結果的に生煮えでした。
長州藩では、恭順派と過激派がくすぶっている。あっさりと処分を引き受けた者が手ぬるい――として逆襲を狙う者たちもいました。
尚志はまたも広島へ向かいます。
このときの詰問は穏やかなものでした。ただし、それは長州藩側の時間稼ぎゆえのこと。
幕府側としても、一向に話がまとまらない。
強硬にやれ。いや、穏健に進めたほうがいい。と、話は割れるばかり。
福沢諭吉はじめ、幕臣たちはこのことを苦々しく思い出す者も多いものです。
中途半端に動くぐらいならやらなければよかった。そして、いざ動いたのならば、フランスの手を借りてでも徹底的に叩き潰すべきだった。
そう苦々しく振り返られる水面下で、ある密約がありました。
薩摩の西郷隆盛・小松帯刀らと、長州の木戸孝允らが、土佐の坂本龍馬ら立ち会いのもと、【薩長同盟】を結んでいたのです。
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薩摩藩の首脳部にいる大久保、西郷、小松らは尊王攘夷思想に理解がある。
彼らに目を光らせていた久光も、参与会議ですっかり慶喜に愛想が尽きた。ゆえに【一会桑政権】に対抗するため、長州へ手を差し伸べたのです。
第一次長州征討で、西郷と協力していた尚志が、そんなことを知るはずもありません。
上野公園の銅像のせいか。『西郷どん』はじめフィクションで描かれるフランクな姿のせいか。
明るく裏表のない人物像のある西郷隆盛ですが、なかなかの策士です。
このあと尚志は、三度目の広島に向かいます。
待っていたのは膠着し切っていた状況。もはや長州を止めるものはありません。
ここから先は、長州による破竹の勢いでの快進撃、電光石火の章となります。
ただし、それをもってして高杉晋作らを稀代の藩士と見るのはいささか違うかもしれません。
幕府という獅子の体内は、薩長の出番の前に、すでに内側から崩壊していたのです。
徳川斉昭が朝廷を政治に引き込み、孝明天皇から攘夷を迫られ、慶喜は追い詰められてゆく。
年若い家茂は、この長州征討の最中に病没し、慶喜は出陣を撤回。
慶喜は自分の身に危険が及ぶと、途端に弱気になり、ものごとを投げ出す悪癖がありました。
【禁門の変】では颯爽としていたものの、あとはそれきり。
慶喜が急に弱気になると、幕臣たちは呆れ顔で「例の癖が始まった」と目配せしため息をつく。
それが将軍の実像でした。
血筋こそ武家の棟梁とはいえ、適性がまったくなかったのです。
そしてこのことこそが永井尚志ら幕臣を不運に巻き込みます。
あまりに無様な失態をさらしたあと、慶喜は最後の将軍となるのでした。
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