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【永井尚志】
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大政奉還
就任から二十日後――孝明天皇が天然痘で崩御しました。
嘘か、まことか、病気から回復していたにもかかわらず、急変して息を引き取ったとか、岩倉具視らの謀略による暗殺説もあります。
真相はもはや明らかにはなりません。
ただ、非常に奇怪なタイミングでの崩御には違いなく、その後、新将軍の徳川慶喜は、有力大名四侯による合議制政治を目指しました。
久光とはもはや同床異夢であることは前述の通り。松平春嶽ですら、幕府再興の望みは潰えたと感じていたほどです。
会津藩が頼りにしていた孝明天皇は崩御。
若い天皇は操りやすい。
政局は崩壊前夜……として薩摩藩上層部は「ときは今」と定めました。
倒幕は……できる!
これを久光に持ちかけると、慶喜に怒りを感じていた久光もついには承諾します。
そして慶応3年(1867年)、薩摩藩と土佐藩は【薩土盟約】を結びました。
土佐藩の後藤象二郎と坂本龍馬には、倒幕へ向けた秘策がありました。
大政奉還――土佐側から永井尚志に接触がはかられ、大政奉還に向けて道は進んでゆきます。こうした状況を受けて、慶喜ももはや王政復古に賛同するしかありえないと悟る。
しかし、この慶喜君臣の決断は反発をうけました。
まず会津藩と桑名藩からすれば明白な裏切りです。
血を流してまで将軍に尽くしてきたのに、あんまりじゃないか!
その気持ちは理解できます。
【一会桑政権】として歩調を合わせてきたはずが、孝明天皇崩御となると途端に掌返しですから、納得できないでしょう。
薩摩の上層部も、手ぬるいと考えています。
このあたりは実に複雑怪奇であり、主戦論を回避すべく活動していた赤松小三郎を謀殺してまで、武力討伐へ向かってゆくのです。
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背後にはさまざまな思惑がありました。
一度「朝敵」の汚名を被った長州藩は、なんとしてでも敵を叩き潰したい。そんな長州藩と同盟者である薩摩藩もその意を汲まねばならない。
そもそも今後の日本がどうなるかなんて誰にもわからない一方で、彼らには反面教師がある。
長州征討で手ぬるい対応に終わってしまった幕府です。
あそこで叩き潰さなかったからこそ、長州は捲土重来ができた。
前述の通り、武力による政権交代を望まなかった赤松小三郎は薩摩藩に討たれ。
赤松と同じく武力行使を望まなかった坂本龍馬は、松平容保の命を受けた京都見廻組によって斬られる。
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避けられぬ悲運の中、永井尚志の思いは記されています。
皇国のため、徳川家のため――。
煮え切らない慶喜のもとで、政局に翻弄されつつ、それでも奔走するほかない永井尚志でした。
慶喜の逃亡
慶応4年(1868年)に幕府最後の歳があけ、【鳥羽・伏見の戦い】で幕府軍が敗走。
事態の処理にあたる尚志のもとへ慶喜逃亡の報告が届きます。
側にいた彼ですら置いていかれた、あまりに突然の東帰でした。
慶喜が入った大坂城は天下の名城であり、武器食糧も十分にある。幕府海軍がまるごと残っているからには、海からだって攻撃できる。
ここに籠城すれば形成は変わったかもしれないのに、なぜ!
大坂城代を突如任された会津藩家老・山川大蔵は馬上で嘆きました。
「天運が去った!」
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いや、それでも、きっと東で戦うはずだ――と、尚志は信じていました。
逃亡直前、慶喜は大演説をぶっています。
千騎が一騎になってでも、死力を尽くして戦うべきだ!
そう宣言した武家の頭領が、おめおめと逃げるなんて、ありえるはずがないと思っていたのです。
東へ戻る慶喜に、拉致同然に連れ去られた松平容保は尋ねました。
あれほど勇敢な演説をしながら、なぜ逃亡したのか?
慶喜は「ああでも演説しないとどうにもならない」とかなんとか苦しい言い訳をしています。
容保は断腸の思いで会津藩兵を残してきました。
その容保相手にすら、慶喜はのらりくらりと言い訳をしていたのでした。
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土方や榎本らと共に箱館戦争
困惑しつつ尚志は紀州を経由し、江戸を目指します。
戻って妻子との再会は果たせたものの、うろつく敵の目を逃れ、尚志はさらに東を目指すほかありません。
奥州を経て、蝦夷地へ向かい、旧幕府政権の首脳になった中に、箱館奉行・永井尚志の名もありました。
榎本武揚や土方歳三とともに、彼は北の大地にいたのです。
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戊辰戦争の締めくくりとなる箱館戦争。夢が散った尚志は、江戸改め東京の監獄に入れられました。
他の幕臣はまだ三十代であるのに、尚志はすでに54歳です。
たくあんと握り飯だけの食事。
十日に一度の入浴。
獄死者も出る劣悪な環境で、明治5年(1872年)の釈放まで二年半を過ごしました。
そのあと五年ほど新政府に出仕します。還暦となるころには職を辞し、清貧の余生を過ごします。
面会を断られた尚志と受け入れられた栄一の差は?
尚志には、果たせぬ願いがありました。
明治11年(1877年)、尚志は駿府の慶喜を訪れます。
すると慶喜は、面会すらしようとしなかったのです。
対する渋沢栄一は
「自分とは面会し歓待するのに、永井尚志は会えなかった」
と記しています。
しかしこれを「慶喜から栄一に対する親愛の証」と、単純に捉えてよいものでしょうか。
永井尚志に対する慶喜の冷淡さや気まずさがあると同時に、名門幕臣よりも自分が上だと自慢したい、そんな渋沢栄一の自己満足にすら感じてしまうのです。
永井尚志は誠意にあふれ、恩義を忘れませんでした。
岩瀬忠震の追悼を続け、岩瀬三十回忌を催した明治24年(1891年)、静かに息を引き取りました。
享年76。
外交官として功績を残し、幕末を生き抜き、大政奉還の立役者でもあり、箱館戦争まで戦った永井尚志。
激務の中でも漢詩を詠み続けたすばらしい教養もありました。
こうも志が清らかな人物が、ひっそりと忘れられたような現状に嘆息を感じずにはいられません。
本当に目指したい日本の先人とは、永井尚志かもしれない――そう思わずにはいられないのです。
慶喜の策の背景には、尚志が影絵のよう付き添っていました。慶喜の功罪にせよ、その幾分かは永井尚志にもあるのです。そんな君臣の運命は、慶喜が勝手に東帰したことで分かれます。
何かと腰砕けと失望された主君に対し、この忠臣は義を貫きました。
誠意を尽くすことで、徳川幕府には武士道があったと示しました。
この誠意こそ、尚志が捧げ尽くした最大の輝きのように思えてなりません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
高村直助『永井尚志:皇国のため徳川家のため』(→amazon)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon)
他