渋沢千代

渋沢千代と渋沢栄一/wikipediaより引用

幕末・維新

栄一の妻・渋沢千代は史実でも気高く聡明な女性~青天を衝け橋本愛

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夫を愛で縛らない――賢妻の生き方

文久3年(1863年)、尊王攘夷に熱狂した栄一は、高崎城焼き討ちテロ計画でお尋ね者となり、故郷を後にすることとなります。

【伊勢参り】を名目に西へ逃げてゆく夫を、千代は悲しみを堪えて見送るほかありません。

夫婦になって5年、志はわかっています。

こうなることは覚悟の上でした。慰めの言葉はいりません――そう涙を落とし語る妻に、栄一は驚きつつ感謝し、生まれたばかりの幼い娘・歌子を託して旅立ったのでした。

このあと、夫婦が再会したのは慶応元年(1865年)のこと。

募兵で血洗島付近まで立ち寄った栄一に、娘を抱いた千代は再会しました。京都へ戻る前に栄一が一泊した深谷宿でのことでした。

そうはいっても、お互い無事である顔を一瞬確認した程度で、語り合う時間もありません。

『青天を衝け』では栄一が「次を仕込むべ!」と千代に語りかけておりましたが、あれはあくまでフィクションです。

一瞬の再会であっただけではなく、二人の性格からしてもありえないことがわかります。

いくらなんでも栄一が、あんな恥ずかしい言葉を堂々と言うとも思えません。夫の出世を妻として喜ぶ、それが実際のところでしょう。

それ以上に、千代はああ言われたらきっと怒ることでしょう。

栄一は千代に文を出しても返事が来ないとこぼしていました。

これには千代の気遣いがあるのです。そこにはたとえ夫婦であっても愛情を出さないことがよいという、千代なりの美学がありました。

千代は夫への愛すら堪え、あえて三通に一度出す程度に抑えていたのです。

あまりに手紙を書くと、寂しく心弱い女と侮られてしまう。そんな誇りゆえに、千代は自制していたのでした。

千代は漢籍を好みます。

ここで考えたいのが、玄宗と楊貴妃のこと。『長恨歌』で知られるこの二人は、深い愛情のシンボルであるとともに、愛に溺れてなすべきことを忘れたことへの戒めとして、日本でも親しまれてきました。

源氏物語』の冒頭でも、光源氏の母・桐壺が楊貴妃のように寵愛を受けたと語らえています。

このように、男の鉄腸を蕩かすような熱愛は戒めるべきだと、彼女なりに考えていたのでしょう。

美しい妻で栄一を止めようとした、そんな市郎右衛門の気遣いは、千代の固い決意の前では効果を発揮するはずもなかったのです。

そうしたことを踏まえますと、夫から「次を仕込むべ!」と千代が言われたら、むしろ怒るのではないかと思えます。

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京都やパリでの栄一は……

さて、ここで千代が堪え忍ぶ一方、夫の栄一が京都で何をしていたのか?推理してみましょう。

彼自身は。一橋家の黒川嘉兵衛から女を斡旋されても「禁欲を貫きたい」と断ったと語り残し、千代宛への手紙にも「女狂いはしていない」と記しています。

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しかし、この「女狂い」の範囲が現代とはまるで違う。

江戸時代とも明治時代とも違う。

幕末志士ルールのものだということは考えましょう。

実家から路銀(旅費)として金をたっぷりもらい、若い栄一と喜作が京都を目指す。となれば、当然のことながら女遊びはしたと推察できます。

江戸時代は人が集まる場所には必ず色を売買する場所がありました。

伊勢参り名目ならば、宿屋にはそういう女性がいます。金がある限りは遊んだとみなした方が妥当でしょう。女遊びすらできないと嘆くことはあったとしても、それはただの金欠だということでしかありません。

新選組と女をめぐってトラブルがあったという話も、おもしろおかしく語り残しています。

そんな本人の証言以外に、状況証拠があります。

栄一はそのあたりを言いにくい事情があるため隠してはおりますが、京都時代は天狗党の藤田小四郎と「畏友」と呼び合うほど親しくしています。

伊藤博文の塙次郎忠宝暗殺の件も、栄一は真相を知っています。

要するに、京都では天狗党ら水戸学の仲間と長州藩尊王攘夷志士は同志として交流していたのです。

栄一は伊藤博文や井上馨の影響で女遊びにのめり込んだという旨の弁解をしています。それは明治からではなく、幕末でもそうだったのでしょう。

こうした志士は、酒と女でどんちゃん騒ぎをしてから、テロの相談をすることがお約束。むしろこの状況で遊ばなかったわけがありません。

彼らは感覚が麻痺していた。

「女狂い」とは、四六時中、特定の女のこととだけで頭がいっぱい、それこそ楊貴妃に溺れた玄宗状態でもなければあてはまらないということ。プロの女性と一晩過ごしたような話はノーカウントなのです。

そしてそんな栄一は、パリでもマドモアゼルにぼーっとしておりました。

幕末の日本人が、トンビ鼻だの文句をつけたのは、あくまで男のみ。ものすごい美女がいたと、来日外国人を眺めていた記録は残されています。

パリでの栄一は、「西施や楊貴妃に勝るとも劣らない!」とフランス人美女を大絶賛。

街を流しているプロの女性と情けを交わし、日本に連れて帰って好みのタイプにしたいと真剣に考えたこともありました。これは相手が取り合わなかったそうですが。

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幕末から明治の志士たちが、国のことだけを考えていただけではないことは明かされています。

明治時代、薩長中心のアメリカ留学生たちは、現地で日本人同士で固まって暮らし、しかもそうしたいかがわしい施設に入り浸るため、悪い評判がたちました。業を煮やした政府は帰国命令を出したのです。

女遊びもせず、極めて真面目に勉強していた山川健次郎は、学友の母が学費を出したための留学を続行できております。

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会津出身の山川は、だらけきらない真面目さを期待されて留学した、少数の負け組枠でした。

要するに、よく遊び、さして学ばない……それでも許される堕落の兆候すら明治初期にはあったのでした。

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