赤松小三郎

赤松小三郎/wikipediaより引用

幕末・維新

知られざる幕末の英雄・赤松小三郎は人斬り半次郎らに殺された?

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赤松小三郎暗殺事件

倒幕を目指すようになった京都の薩摩藩上層部。

これに対し、赤松の考えは「幕薩一和」です。

あくまで幕府や佐幕藩と協力し、新たな国作りを目指しておりました。

「薩土盟約」を元に戻し、内戦を回避する――そのため、西郷隆盛小松帯刀、幕臣の永井尚志(ながい なおゆき)らと会談を重ねるのです。

彼の危険を察知した上田藩が呼び戻そうとするのも、断り続けました。

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理想に燃える赤松は、実際、その身に危険が迫っておりました。

いくら恩義があるとはいえ、ひとたび戦争を起こす考えに取り憑かれた薩摩藩上層部にとって、ただの邪魔者になってしまったのです。

そして慶応3年(1867年)8月。赤松は、西郷が長州藩と取り付けた挙兵計画を知り、もはや限界だと悟ります。

そして上田に帰ろうとしたところを、小松により止められます。

小松には、赤松が帰国しようとすればどうなるか、わかっていたのかもしれません。しかし……。

同年9月3日、帰国準備を進めていた赤松は、京都で殺害されます。

三条大橋には、攘夷派が書きそうな罪状が結びつけられておりました。

【この者は西洋かぶれであり、皇国の意図に背き、天下を動揺させた不届き者であるため天誅を加えた――】

暗殺犯は?

長いこと不明とされてましたが、大正8年(1919年)、薩摩藩士であった有馬藤太郎が、中村半次郎(桐野利秋)の犯行であったと語ります。

昭和42年(1972年)。

半次郎の日記である『京在日記』の散逸部分が発見され、決定的となりました。

以来この事件は、「殺す」と口走った短気な中村の単独犯行とされてきました。

しかし、本当にそうだったのでしょうか。

 

赤松暗殺事件の謎

確かに実行犯は中村だったのでしょう。

しかし、その背後に黒幕はいなかったのか?

赤松の死には謎が多く、いくつか疑惑を挙げさせていただきます。

薩摩藩ぐるみで隠蔽工作

中村は、赤松の殺害後、薩摩藩邸から彼に関する資料をことごとく焼却しました。

引っかかりますね。

短気な男の突発的な行動にしては、なかなか手が込んでいる。

これほどの重要人物を殺しておいて、お咎めがないというのも不自然でしょう。

このあと赤松の遺族には、弔慰金三百両が贈られ、薩摩藩士には厳しい箝口令が敷かれました。

あれほど世話になったのに、忘れるよう仕向けられたのです

中村だけが犯人ではない?

中村は単独犯ではありません。

田代五郎左衛門も殺害に立ち会っており、見張り役として3名の薩摩藩士が現場にいました。

同行していた薩摩藩士・野津七次と別れ、単独となったところで赤松は殺害されたのです。

突発的な行動とは思えない計画性が感じられます

薩摩藩内には武力倒幕反対派も多かった

赤松の死に、動揺した薩摩藩士も多かったことでしょう。

それというのも、薩摩藩士といえども、武力倒幕で一致していたわけではありません。

国父こと島津久光も了承しておらず、国元では反対派が多かったですし、在京でも、西郷、大久保一蔵(大久保利通)、小松といった者以外には賛同しない者もおりました。

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そうした反対派につきつけられたのが、思想的のリードしていた赤松の死というわけです。

これ以上武力倒幕に反対したら、いけんなうかわかっとうな――そう示すのに、これ以上効果的なこともありません。

大久保一蔵の不審な行動

赤松は死を迎えたその日、大久保主催の送別宴に出ておりました。

ここで中村は「敵軍に先生(赤松のこと)がいうと、本気で戦うこっができもはん」と、師弟の縁を切ると赤松に告げているのです。

しかも、実は暗殺に先んじて、大久保は赤松の身辺調査を命じておりました。

中村の後悔と愚痴

中村は後年、山県有朋に対して明治維新が早く成り立てば「赤松を殺すこともなかったのに……」と愚痴を言っていたと伝わります。

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なんせ彼は、赤松殺害を気に病み、悪夢にうなされていたというほど。

しかしなぜ、長州の山県に愚痴をこぼすことができたのか?

長州派も犯行に関与していたからこそ、その相手に選んだとも考えられます。

品川弥二郎の関与

武力倒幕に乗り気であり、薩摩を急かしていた品川弥二郎。

彼の記録には、赤松暗殺がらみの記述があります。

何としても武力倒幕を遂げたい長州にとって、赤松は邪魔者でした。

短気な人斬りによる突発的な暗殺事件――かつて、この事件はそう考えられていました。

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しかし、きな臭さがつきまといます。

武力倒幕を成し遂げるため、その邪魔者として殺された――そう考えた方がスッキリする状況が多い。

例えば赤松のあとに暗殺された坂本龍馬中岡慎太郎に関しては、薩摩藩による暗殺説は現在否定されております。

しかし、赤松に関しては否定できません。

犯人が薩摩藩士の中村という時点で黒なのですが、背後に陰謀を感じさせるのです。

 

赤松の弟子たち、明治時代に活躍

赤松の死に関して、薩摩藩士は箝口令を敷かれております。

しかし、弟子たちが師匠を忘れたことはありませんでした。

赤松と薩摩藩を結びつけた野津七次は、道貫と改名し、維新後は陸軍に入ります。

野津道貫/wikipediaより引用

そして明治10年(1877年)、西南戦争に政府軍第2旅団参謀長として出征。

兄の鎮雄とともに【田原坂の戦い】で指揮を執りました。

この戦いで、西郷軍を指揮していた篠原国幹は、赤松の掛け軸を背負っていたとも伝わります。

篠原国幹/wikipediaより引用

西郷が赤松の死に関与していたかどうかは、ハッキリとはしません。

ただ、西郷軍には赤松を手に掛けた中村半次郎が、桐野利秋と名を変えて従軍しておりました。

【田原坂の戦い】とは、赤松の弟子同士の戦いであり、野津にとっては仇討ちとも言えたのです。

野津は、師の仇討ちを狙っていました。

戊辰戦争も内戦であるとして、乗り気ではありませんでした。彼の心中には、赤松の教えがあったのでしょう。

そんな野津にとって、仇討ちの機会が、10年の歳月を経て訪れたのです。

彼にとって同郷の薩摩隼人を討つ戦いは苦しいもの。しかし、仇討ちが達成出来たとも言えます。

野津は、赤松仕込みのイギリス式兵学を忘れることはありませんでした。

その優れた指揮能力は、日清・日露という戦争で発揮され、陸軍元帥にまでのぼりつめています。

また、門人で大垣藩士だった可兒春琳(かに しゅんりん)も、日清・日露戦争で活躍し、陸軍少将へと出世を果たしました。

赤松の弟子が輝いたのは、陸だけではありません。

日露戦争に勝利した翌年の明治39年(1906年)。

海軍の英雄・東郷平八郎と上村彦之丞(かみむらひこのじょう)は、上田を訪れ赤松の墓参りを行いました。

東郷平八郎/wikipediaより引用

【日露戦争で日本がロシアに勝てたのも、赤松先生の薫陶があってこそ――】

日本海海戦の英雄である東郷平八郎は、そう回顧。そして大正13年(1924年)、赤松が従五位を追贈されると、彼は顕彰碑に揮毫しました。

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そんな東郷ですら、赤松の暗殺については生涯語ることはありませんでした。

上田の人から語るように促されても、口をつぐみ続けたのです。

死後、関係書類が焼却され、箝口令が敷かれた赤松小三郎

それでも教えを受けた弟子たちは、師匠を尊敬し続け、明治時代に活躍を遂げました。

これほどの英傑の存在が謎に包まれたまま、その事績が時に坂本龍馬伝に組み込まれてしまっていることは、惜しまれることです。

今後、研究が進み、彼の事績が明らかになることを願ってなりません。

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文:小檜山青

【参考文献】
関良基 『赤松小三郎ともう一つの明治維新――テロに葬られた立憲主義の夢』(→amazon
五代夏夫『薩摩秘話』(→amazon

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