会津戦争の遺体埋葬論争

新政府軍の攻撃を受け損壊した会津若松城/wikipediaより引用

幕末・維新

会津戦争『遺体埋葬論争』に終止符を~亡骸埋葬は本当に禁じられた?

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白虎隊士の埋葬禁止伝説とは

ここから先は2つの関連するお話を見ておきたいと思います。

まずは前述の白虎隊について。

彼等についても埋葬禁止の話が伝わっており、その顛末は今なお不可解なものとなっています。

なぜ、そんなことになってしまったのかというと……。

1868年8月、牛ヶ墓村の肝煎(庄屋)・吉田伊惣治が、飯盛山で自刃した白虎隊士の遺骸を発見。

「なんとまあ、むずせごと……」と若い武士の遺骸を憐れみ、埋葬しました。

ところがこれを咎められ、牢に繋がれてしまうのです。

「誰が埋葬しろと命じた!」

新政府軍に追及された吉田は「会津藩士の依頼ではない」と答え、釈放はされたものの「これ以上の埋葬はするな!」と命じられてしまいます。

しかしその一方、10月の時点で埋葬が許可され、飯盛山以外で亡くなった白虎隊士の埋葬記録もあります。

飯盛山/photo by ELK wikipediaより引用

これはどういうことか?

無許可での埋葬がいけなかったのか?

それとも賤民が埋葬せねばならなかったのか?

残念ながら謎は残されたままです。

そしてその飯盛山には、後に奇妙な騒動を巻き起こす「イタリー碑」なるものがあるのをご存知でしょうか?

 

飯盛山のイタリー記念碑

白虎隊士自刃の地として有名な飯盛山は、会津若松市の歴史観光スポットとして賑わい、エスカレーターまで整備されています。

墓地の前には土産物屋が並び、往年の悲劇を感じさせないほど賑やか。

しかし上まで登ると、厳かな慰霊の雰囲気が出てきます。

余談ですが、飯盛山のポケストップを回すために『ポケモンGO』プレイヤーが山の中を徘徊し、「慰霊の地で遊ぶな!」と問題になったことがあります。

二重螺旋階段を持つ不思議な構造のさざえ堂や、遠く美濃からはるばる転戦してきた郡上藩凌霜隊の慰霊碑もあります。

旅行で来られた際は、是非こちらにもお立ち寄りください。

会津さざえ堂

この飯盛山に、なぜ、そんなものができたのか?

イタリー記念碑――。

【ファシストの碑】とも呼ばれ、これがあるために山に登らない外国人観光客もいるとか。なぜなら、あのムッソリーニから送られたというものだからです。

公式サイトにはありませんが、この設置までの顛末がなかなかドタバタでした。

一から見てみましょう。

 

ムッソリーニから!というのは嘘だと……

大正14年(1925年)、会津戦争にも参加した山川健次郎と会津若松市長・松江豊寿は、飯盛山を厳かでアクセスしやすい慰霊の場にしたいと考えました。

山川健次郎/Wikipediaより引用

寄付を集め、階段を整備し、参拝しやすくする。

土産物店は後世の産物とはいえ、まあ現在の慰霊のかたちに整えるわけです。

松江豊寿
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山川自身も寄付金を捻出。

民間からも広く出資を募り、整備に乗り出したところ、寝耳に水の知らせが届きました。

「イタリアのムッソリーニ首相が、白虎隊士の忠義に感動して、祈念碑を贈りてえだど!」

「なにっ!」

ムッソリーニ/wikipediaより引用

確かにイタリアは当時の同盟国でした。

それなりの配慮をせねばならぬ相手だったでしょう。

と言いたいところですが……実はこの話、なんとウソ!

福岡出身の下位春吉という詩人が、ムッソリーニと親交があり、デマカセを言ったのです。

イタリア各地を回ったあとで、松江にリップサービスのつもりで嘘をついたのです。

下位春吉/wikipediaより引用

話は徐々に大きくなり、挙句の果てには新聞にまで掲載。

もはや「すまん、嘘だった」とは言い出せない状況です。

そのうち山川や松江らは「なじょしてイタリーは記念碑を贈ってこねえ!」とイライラし始めます。

しかし下手をすれば外交問題に発展しかねない状況のため、イタリアも大理石の記念碑を贈る――という妙な顛末を迎えます(山川らは全く悪くありませんが)。

昭和3年(1928年)。

打ち上げ花火があがり、イタリア大使が会津若松に到着。

大きな歓迎セレモニーを経て、イタリー碑は飯盛山に設置されました。

戦後は、アメリカ進駐軍の指導により、ファシズム賞賛ということで一部が毀損され、昭和60年(1985年)に本来の姿へ戻されました。

 

正しく語り継がれるときが来た

阿弥陀寺では今に至るまで毎年、改葬が終わった4月と会津戦争のあった9月の年二回、慰霊祭が実施されています。

9月は、斎藤一忌日も、会津まつりにあわせて行われます(会津若松観光ナビ→link)。

時が流れて会津藩士や遺族の数が減ると、毎年開催される慰霊祭に課題が見えて来ました。

そこで大正2年(1913年)、会津弔霊義会(→link)が創設。

現在に至るまで、様々な慰霊の行事が行われています。

 

県立葵高校は元女子校であったため、中野竹子らの女性部隊「娘子軍」に扮した踊り「娘子隊演舞」で慰霊を行います。

また現在に至るまで、会津武家女性のたしなみであった長刀競技の強豪校でもあります。

2018年のポスターには、こんなキャッチフレーズが記されました(会津若松市戊辰150周年記念事業→link)。

「會津の想い、脈々と」

弓と矢を持った若い女性が凛とした目で、こちらを見つめています。

その通りだとは思います。

ただし、誤った史実を脈々と伝える必要はないわけです。

会津戦争の埋葬に関する伝説は、この機会に正しく語り継いでもよいのではないでしょうか。

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文:小檜山青

【参考文献】
野口信一『会津戊辰戦死者埋葬の虚と実―戊辰殉難者祭祀の歴史』(→amazon
今井昭彦『反政府軍戦没者の慰霊』(→amazon

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