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【島津久光】
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倒幕へ
慶応3年(1867年)。3年ぶりに、久光は動きます。彼にとって4回目の上洛を果たしたのです。
そこで久光は、松平春嶽・山内容堂・伊達宗城とともに四侯会議を開くことになりました。
このとき、四侯が対峙したのは慶喜でした。
西郷は久光に、世間の同情が長州に集まっているからには、長州への寛大な処分を優先して求めるべきだと進言。
しかし、慶喜は兵庫開港問題を先決すべきだと主張し、両者の主張は決裂しました。
慶喜としては、ここで長州に手ぬるい処分をすれば、幕府の権威は丸つぶれになるとわかっているわけです。
話し合いによる革命への道は、これで閉ざされました。
斉彬に言われて以来、内乱だけは避けようと考えていた久光。しかし、もはや武力による革命は避けられない、そう思うほかありません。
久光は帰国し、出兵の準備を整えることにしました。
藩内には久光すら手を焼くほど出兵反対論が渦巻いていましたが、久光はこれを抑えつけます。
にわかに事態は動き出します。
久光が帰国して間もなく、10月14日には「討幕の密勅」が届くのです。
さらには慶喜が「大政奉還」を行い、久光にも上洛せよと朝廷から命じられるのでした。
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久光は病を得たと称して、子の忠義を派遣。薩摩兵は戊辰戦争を戦うため、東へ、北へと向かうことになるのでした。
久光は徳川打倒を国元で喜び、そのために犠牲になった将兵を丁寧に弔いました。
鬱々たる明治の世
久光にとって、倒幕の成就は望みがかなったことでした。
斉彬の目指した道とは異なったかもしれませんが、それでも日本を変えることに成功したことは確かです。
しかし、久光は明治政府の方針には批判的でした。
久光と西郷は薩摩に引きこもり、出仕しようとはしませんでした。勅使まで訪れても、病と称して頑として出仕を拒み続けたのです。
明治4年(1871年)、廃藩置県令が出されると、久光は猛然とこれに反対しました。
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西郷は冷や汗をかきます。
全国諸藩の賛同も得られそうなのに、よりによって薩摩から強硬な反対論が出るというのはまずい。
このときはなんとしても久光を抑え込んだものの、彼の鬱憤は溜まるばかりでした。
久光をおとなしくさせるにはどうすべきか?
天皇の威光が効くであろう――と考えた西郷は、天皇の行幸を実現させます。
しかし、これが逆効果。天皇に随行した元薩摩藩士が挨拶も来なかったということで、久光は西郷に怒りをぶつけます。万事このような調子です。
久光は鬱憤をため、国元に残った西郷はそれを受け止めざるを得ない。
何とも不幸な君臣関係がそこにはありました。
明治10年(1877年)、久光が「安禄山」と罵った西郷も、西南戦争に散りました。
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このときは戦火を避けて、久光も一時避難しています。
こうした久光の行動は、
「維新の意味を理解しない、頑迷で保守的な、バカ殿様の行動」
とみなされがちです。
しかし、そこは慎重に考えたほうが良さそうです。
久光のように不満を訴えた者が身分に関わらずいたことは、反乱が各地で起きたことからもわかります。
幕末、民衆は不満を抱いていました。
外国人殺傷事件の賠償金支払いのため、年貢は重くなるばかり。
倒幕派は、弱腰の幕府は外国の言いなりだけれども、自分たちならばそんなことにはしないと喧伝していたのです。
「幕府さえ潰れちまえば、西洋の言いなりじゃなくなるんだ」
そういう期待感を背景に、倒幕に参加した人もいたのです。
ところが、維新のあとは掌返しをされたわけです。賠償金の支払いも、明治政府が引き継ぐことになりました。
それだけではありません。新政府は開かれた政治どころか、閉鎖的な「藩閥政治」が行われました。
作家の司馬遼太郎は、西郷と大久保の出身地である加治屋町をさして、こう言いました。
「いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである」
これは一見素晴らしいことのように思えますが、私はそうは思いません。
国家の一大事を、同じ町内の人だけで回すというのは、なんと閉鎖的なことでしょう。
結果的に挫折したとはいえ、久光は大名による合議制政治を行うことに尽力してきました。
そんな久光にとって明治政府のやり方は、幕末の合議制よりも閉鎖的に見えたのかも知れません。
明治政府のやり方に不満を持つ者に担ぎ上げられた西郷が、戦場に散ったそ十年後の明治20年(1887年)。
久光は死去します。
享年71。
晩年は豊かな古典的な素養を生かして、歴史資料の編纂にあたり、静かな余生を送っていたとされます。
最も才略に富んだ政治家
久光に対して、かつての藩士や政府は腫れ物を触るようにして扱いました。
不満をなだめるためか、叙位・叙勲や授爵においては最高級で遇されました。
一方で、西郷・大久保贔屓の物語における彼の扱いは酷いものです。
維新後、久光が配下の者にこう言ったという話がまことしやかに伝えられています。
「俺はいつ将軍になるのだ」
幕末の政局において、将軍の権威と対峙し、それを骨抜きにしてきた久光が、こんなトンチンカンなことを言うものでしょうか。
これは後世の創作とされています。
明治維新を邪魔した男。
英邁な西郷や大久保を困らせた男。
兄・斉彬が賢兄ならば、久光は愚弟。
なぜそうした人物評が広まったのかを考えると、理由は簡単に想像がつきます。
久光側の言い分を分析すれば、西郷も大久保も、実質的藩主に対してあまりに不忠であることが明々白々となってしまうのです。
斉彬との美しい忠義が殊更にクローズアップされる一方、久光へのそうした態度は肩をすくめつつ、こう言われるのが大体のパターンです。
「久光は馬鹿殿だからね。忠義なんか尽くせないよ」
これぞまさに、ダブルスタンダードでしょう。西郷や大久保の不義理を誤魔化すために、久光に損な役割を押しつけられているわけです。
しかし思い出してください。
水戸藩や長州藩は、暴走しました。
会津藩は政治的にゆきづまって滅びの道を歩みました。
他の多くの藩は、時代の転換点において右往左往しておりました。
そんな中で、薩摩藩は一丸となって、混迷の政局において常に主役級の座を保ち続け、最終的にも勝者となりました。
その政局において、先頭に立って睨みを利かせていたのは久光です。
西郷も大久保も、実際のところ久光にはそうそう逆らえなかったのです。
最後に、イギリス人が見た久光評を記しておきます。
「背丈は低く、顔立ちは鋭い。見るからにただ者ではない」
「武勇にあふれ、いかにも君主らしい。彼は日本でも最も才略に富んだ政治家だ」
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考】
芳即正『島津久光と明治維新』(→amazon)