島津久光

島津久光/wikipediaより引用

幕末・維新

西郷の敵とされる島津久光はむしろ名君~薩摩を操舵した生涯71年

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久光、東へ

桜田門外の変で、幕府の権威は失墜しました。

次に権力を握るのは、誰なのか。熾烈なパワーゲームが始まります。久光はこのころ、兵乱が起こることを待っておりました。

しかし、どうにもその気配はありません。

時局が動かないのであれば、こちらから動く――。

時機到来を待ち受けていた久光が目を付けたのが、将軍・徳川家茂と皇女・和宮の婚礼による「公武合体」です。

和宮
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1. 和宮が東に向かうとなれば、その御身が将軍家の意向のままとなってしまう

2. ここで改めて「皇国復古」を成し遂げたい。とはいえ、「安政の大獄」のようなことになっても困るから、牽制しなければなるまい。今こそ大久保ら精忠組との約束を守り、出兵する時が来たのだ

3. そのためには、滞在して京都守護をする詔勅を求めたい

4. そのうえで、朝廷から勅使を江戸に派遣し、改革を行う

久光の計画は、慎重かつ冷静なものでした。

藩全体が暴発した水戸藩。

過激派が暴走気味で、御所を襲撃するに至った長州藩。

京都守護職として、孝明天皇の信頼を背後に勢力を伸ばすものの、没落した会津藩。

そうした藩と比較すると、薩摩藩は混乱を極める政局の中、浮沈もなく常に一歩リードしていました。

そうした手柄は、大久保や西郷のものとされてきました。

しかし、久光の判断も的確であったことが過小評価されているのではないでしょうか。

 


「アナタ、ぶっちゃけ“田舎者”っすわ」

京都に乗り込み、政局をリードする――。そう決意を固めた久光に水を差す人物が現れました。

西郷隆盛(本稿はこの名で統一)です。

月照と心中未遂したあと、奄美大島に流されていた西郷。

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島から戻って久光と和解する流れになっていたのですが、西郷はなんと、こう言い放ったというのです。

「御前には恐れながら“地ゴロ”」

【意訳】殿様だから言いにくいけど、アナタ、ぶっちゃけ“田舎者”っすわ

久光はショックを受けました。

藩主の父であり、幼い頃から英邁とされてきて、大久保ら藩士との意思疎通もうまくいっていた。

それが下級藩士の西郷にここまで言われたのですから、はらわたが煮えくり返ったことでしょう。

西郷にすれば、久光の器が小さいとかそんなことよりも、名目上は藩主ではなく、その父に過ぎず、無位無冠ではないか――そういう思いもあったのでしょう。

一般的なイメージでは、思い切って改革を断行する西郷と、保守的でその邪魔をする久光という像があります。

ただし、この上洛に関しては逆です。官位という既成の概念を無視して挑戦しようと意欲みなぎる久光と、しきたりがあるから出来るわけがないと消極的な西郷という対立構造だったと考える方が自然です。

これには大久保も困り果てました。

西郷は脚が痛いと温泉に引きこもって、前線からの引退すら臭わせてしまうのです。それでもなんとか西郷を説得し、京都に先発させました。

しかしこのとき、西郷は暴走してしまいます。

下関で待機せよ、という命令を無視して大坂に向かってしまったのです。

田舎者呼ばわりされた耐えてきた久光も、さすがにこの勝手な行動は許せぬと大激怒。

大久保が間に入ろうとしますが、彼との面会すら拒み、結局、これがキッカケで、西郷は徳之島・沖永良部島遠流とされてしまいます。

果たして悪いのは久光だったのでしょうか?

これにはそう単純に言い切れぬ深い理由があったと推察します。

西郷はそもそも、幕府から見れば死んだはずの人間でした。

一度目の遠流の際に処刑されてもおかしくないところを、命を助けて政界にまで連れ戻し、重用したわけです。公式には死んだ存在ですから、できるだけ目立たないよう行動を取って欲しいというのが、久光側の本音です。

そもそも実質的に藩主といえる久光を軽視し、命令まで無視するというのは、忠誠心という面でも問題ありと思われます。

でもなぜこの二人は、こうも不仲なのか?

久光の器が斉彬より小さかったとか、斉彬を崇拝していた西郷からすると物足りないとか、後世においても色々と言われています。その多くが久光側の問題とされています。

しかし、本当にそれだけなのでしょうか。

西郷の態度にも問題がありましょう。

幕末武士の、主君に対する態度として、さすがに問題があると言わざるを得ません。

西郷が誰からも好かれる人柄というのはあくまで創作物のイメージであり、実際には敵も多かったとされています。

自分と合わない性格の人間には、冷たい態度であり、恨みを忘れない執念深さもありました。

斉彬の存在は、その西郷の性格的な欠点を際立たせているのではないでしょうか。

一般的に「英雄・西郷が正しい」という視点にされてしまうため、反対に久光の人物像が悪く描かれがちになります。

更には両者とも、自分こそが斉彬の遺志を継ぐ者だと自負していたことも、対立の原因かもしれません。

いわゆる「同族嫌悪」という感情ですね。

 


久光、上洛す

文久2年(1862年)、春。
武装した島津久光が、兵を率いて京都に向かう――。

この一報は、幕末の政局にショックを与えました。

西郷は成功する見込みもないと冷淡でしたが、そんなことことはありません。

むしろ、藩主本人ではなく、藩主の父という立場でありながら、これほどまでのことをするということに、世間は驚きました。

無位無冠だろうと、完全武装の物々しい一団です。無下にあしらうこともできるわけがない。

斉彬の遺志を継ぎ、武力をちらつかせながら皇国の発展を目指し、幕府に圧力をかけようとする久光。政局を動かす力が実際にはありました。

京都において、久光は暴発気味の過激派尊皇攘夷藩士を処断しました(「寺田屋事件」)。

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自らの藩士たちを斬って騒動を治めるという流血沙汰を起こしながら、久光はかえって評価をあげました。

家臣であろうと、不穏な暴走をする藩士は、断固たる処断。不穏な動きが高まる京都において、その果断ぶりが賞賛されたのです。

さらにこの犠牲は、久光の覚悟をも強めました。

流血すら強いられたのであるから、もはや引っ込みがつきません。

断固として勅命を得て、幕政を改革せねばならない。そう決意を固めました。

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