徳川慶喜公伝

公爵になったときの徳川慶喜(左)とNYで撮影された渋沢栄一/wikipediaより引用

幕末・維新

栄一と慶喜の言い分は信用できん?『徳川慶喜公伝』に書かれたこと

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『徳川慶喜公伝』
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頑なに口の重い慶喜

一方の渋沢栄一も、明治の世において、資本主義の父として経済界の重鎮となりました。

しかし、彼にはどうしても隠したい汚点があります。

「弍臣(じしん)」という汚名です。

「弍臣」とは、主家を替えて仕えた家臣のこと。新政府のもとで幕臣たちは「朝臣」として出仕するよう通達がありましたが、主家を替えて「弍臣」になることより、困窮を選ぶ者ばかりでした。

そんな中、多少の足踏みはあっても「弍臣」となった栄一には後ろめたい気持ちがあります。

そもそも彼が豪商出身の青年から幕臣になった経緯も、あまり綺麗な話ではありません。

当時流行していた水戸学に傾倒し、志士として倒幕を掲げながらテロ計画が雑すぎて発覚、お尋ね者となってしまう。そんなとき渡りに舟とばかりに平岡円四郎のスカウトがあり、成一郎と共に一橋家へ仕えた。

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しかし、その一橋家の殿様・慶喜が将軍になったから大変だ!

倒幕を叫んでいたのに倒される側についてしまい、栄一本人はかなり落ち込んでしまいます。

彼は他の幕臣とは異なり、幕府倒壊は当然のことというのが本音でした。

小栗忠順はそんな栄一に「倒幕を唱えていたくせに、今度は幕府を支えたいのか」と皮肉っております。

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栄一は、自分の意思で慶喜に出仕したことになっています。

追い詰められてやむなく……とは言いにくい。しかも、そうして選んだ主君が、あんなにも情けない屈服を選んでしまった。

そこをどうにかごまかすため。己の経歴を飾り立てるため。

栄一は手間隙かけねばならず、慶喜が明君であることをどうにか証明せねばなりません。

慶喜の名誉回復は本人だけでなく栄一の問題でもあったのですね。

しかし、慶喜はスフィンクスのようで、言葉数も少ない。

宝台院での再会以来、湿っぽい愚痴も交えつつ、栄一は真意を問いただそうとしますが、「過ぎたことを語っても仕方ない」と口を開かない。

ゆえに栄一は待ちました。

 

金・権力・時間 材料は揃った!

明治20年代ともなれば、明治の世も、慶喜の精神世界も落ち着きつつある――彼らにとっては幸福な年月となりました。

栄一は長州閥の政治家と親しくなり、権力と財力を得ておりました。

金がない幕臣たちの中には、栄一の思うがままに筆をとる御用文筆家もいます。

金。権力。時間。人材。世間の空気。そして本人の証言。

材料は揃いました。

よし、慶喜公の伝記を書こう!

明治26年(1893年)栄一はそう決意を固め、元幕臣の福地源一郎(号は桜痴)に執筆、旧桑名藩士・江間政発に資料収集を依頼したのです。

福地源一郎福地桜痴
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福地はまずグランドデザインを決めました。

「慶喜公がなぜああもあっさりと幕府を手放したのか? そのことをむしろ逆転して英断だとするためにも、初代・家康公から振り返って対比させよう!」

歴史の検証として、過去に遡ることはある意味自然なことでもあります。しかし、慶喜の伝記を記すのであれば、あまりにも歴史が古すぎる家康との比較は適切とも思えません。

それでも巧みな文才を誇る福地は、そのことを強く主張したのです。

大河ドラマ『青天を衝け』でも家康がナビゲーターを務めます。この奇抜な設定も、福地桜痴由来と想像すると興味深いものがあります。

ただし、いざ執筆を始めようとしても、慶喜はまだ消極的で非協力的ではありました。

栄一が粘り強く説得すると、条件をつけてきます。

「死後発表ならばよかろう……」

元君臣の利害はかくして一致。

そうして取り掛かられたのが『徳川慶喜公伝』ですので、いくら本人たちが美化して語っても、受け取る方は慎重になるべきでしょう。

慶喜は使える間だけは家臣を信頼し任せ、そうでなければあっさり使い捨てにする悪しき傾向も指摘されています。

代表例が、前述の永井尚志

大政奉還をまとめあげたのは永井でしたが、明治になってからは「会う価値がない人物」とされました。

主君のために苦心惨憺しつつ無血開城をまとめあげた勝海舟も、勝がなくなる直前まで会おうとすらしませんでした。

しかしこうして始まった伝記執筆の準備中、問題が発生します。

福地が代議士になろうとして失敗し、病死してしまったのです。

それでも福地の考えたアイデアをベースにして、伝記は進められました。

慶喜の再評価も、伝記を待たずして進められていく気配がありました。前述のとおり、公爵となり名誉が回復されたのです。

結果、慶喜自身も、だいぶ気持ちが和らぎ、協力的になります。

そんなタイミングで栄一が発起人となり、旧幕臣が慶喜とともに往事を語る「昔夢会」を結成。その場で語られることが書籍のネタとしてまとめられていきます。

さすが時代を読む感覚がピカイチと言いましょうか。感無量の栄一。

慶喜の死後に完成させるのではなく、なんとか生前に読んで欲しいとまで願い、最終的に慶喜は、最後の部分をのぞく初稿を閲覧しています。

そして大正2年(1913年)11月22日早朝、肺炎を患い、息を引き取りました。享年77。

『徳川慶喜公伝』が刊行されのは、その4年後の大正6年(1917年)のことでした。

同年には「昔夢会」の問答を記録した『昔夢会筆記』も刊行。

現在も『徳川慶喜公伝』が東洋文庫から全4巻(→amazon)、『昔夢会筆記』は1巻(→amazon)が刊行されており、今なお貴重な史料として読むことができます。

それが残されたことも、渋沢栄一の大きな功績のひとつでしょう。

しかし……。

 

『徳川慶喜公伝』には注意が必要

当初から申し上げておりますように『徳川慶喜公伝』には重大な注意点があります。

あくまで慶喜の弁明を編集した内容ですから、刊行当初から会津藩はじめ多くの関係者が激怒していた。

中でも明治屈指の頭脳を誇り、兄が会津藩家老をつとめ、本人は白虎隊士であった山川健次郎の怒りと苛立ちは強烈でした。

山川健次郎は『会津戊辰戦争史』において、

「慶喜側の言い分はまったくもって信頼できない!」

と痛烈に批判し、論争となっているのです。

この反応からも、なぜ慶喜が当初死後に刊行するよう条件をつけたのかが理解できます。

他ならぬ本人が炎上必至と意識していたのでしょう。

慶喜は臆病で慎重なところがあり、余計な論争を避けたと考える方が自然です。

ゆえに我々としても『徳川慶喜公伝』の扱いは慎重であらねばなりません。

確かに役立つことはありますが、慶喜本人がいちいちチェックした上で記されているため、都合の悪い記述があるわけない。出版後に散々、批判されてきたのもそのせい。

これは史料全般に言えることですが、一冊の書物を鵜呑みにするのは危険なことであります。

他の史料と付き合わせる「史料批判」の過程を経て、事実であると認識すべきものでしょう。

大河ドラマ『青天を衝け』は『徳川慶喜公伝』を素直に受け取って描かれています。

ドラマは史実なんだよね?と頭から信じてしまうことに危険性を感じてしまうのは、そのためなのです。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
小西四郎『徳川慶喜のすべて』(→amazon
菊地明/伊東成郎『徳川慶喜101の謎』(→amazon
徳川慶朝『わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔 徳川慶喜家にようこそ』(→amazon
家近良樹『その後の慶喜: 大正まで生きた将軍』(→amazon
家近良樹『徳川慶喜 (人物叢書)』(→amazon
高野澄『徳川慶喜―近代日本の演出者』(→amazon
一坂太郎『幕末時代劇、「主役」たちの真実 ヒーローはこうやって作られた!』(→amazon

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