【写真左】渋沢栄一とその家族(右端が後妻の兼子)【写真右】先妻の渋沢千代/wikipediaより引用

幕末・維新

女遊びが強烈すぎる渋沢スキャンダル 大河ドラマで描かれなかったもう一つの顔

2025/02/12

天保11年(1840年)2月13日は渋沢栄一が生まれた日。

大河ドラマ『青天を衝け』で演じた吉沢亮さんがあまりにも爽やかだったため、意外かもしれませんが、実は放送前からこんな懸念がありました。

「大河の主役にしては、あまりにも女遊びが派手すぎやしませんか?」

そしてその懸念が当たったかのように、結婚式で新一万円札、つまり渋沢栄一のお札を使うのは失礼じゃないか?というマナーの問題に発展しています。

◆新1万円札は祝儀に不適切? 渋沢栄一は「不貞を連想させる」「新マナー」にまで(→link

これは行き過ぎたマナーというやつなんでしょうか?

確かに歴史というものは、往々にして現代とは価値観が違います。

戦国にせよ、幕末にせよ、夫婦の在り方も今とは大きく異なり、「英雄色を好む」なんて言葉もあるほどです。

しかし、渋沢栄一の女遊びは度を超しており、それは同時代の人物たちからも議論の的になり、それを認めた本人も周囲にこう漏らしておりました。

「明眸皓歯(めいぼうこうし・明るい目に白い歯・つまり美女のこと)以外は恥じることはない」

この言葉をどこまで信じてよいのか……それはさておき、女性がらみのスキャンダルについて隠すつもりがなかったのは確かです。

では、渋沢の女遊びとはどんなレベルのものだったか?

日本を代表するNHK大河ドラマの主役であり、お札の顔でもあるわけですから、この辺りの事情を包み隠さず振り返ってみましょう。

 

旅の恥は掻き捨て

時は幕末、安政5年(1858年)。

栄一の父・渋沢市郎右衛門は悩んでいました。

まだ若い我が子が、代官の横暴に憤激している。世直しを訴え、近隣の若者と尊王攘夷を唱えている。

これはまずい。身を固めさせて落ち着かせよう!そんな狙いから一つ年下のイトコ・後の渋沢千代と結婚させました。

当時としてもかなりの早婚である満18のことでした。

しかし文久3年(1863年)、栄一は止まらず、攘夷テロ計画、妻子を残し上洛することとなります。

そして、この時点からいきなり“行動”に出ます。

平岡円四郎の家へ立ち寄った帰り道、栄一と喜作はこう言いあったのです。

「京都に向かう前に吉原に行ってみんべえ!」

大河ドラマでは当然取り上げられない、江戸不夜城での長い夜。それに飽き足らず彼らはひとしきり遊んだあと伊勢参りへと旅に出ました。

路銀はたっぷりと父が用意してくれています。

伊勢参りの宿場町には、お約束の施設がありました。

遊郭です。

こちらは葛飾応為が吉原を描いた『吉原格子先之図』/wikipediaより引用

実は当時の春画には旅行シリーズがあり「あの宿ではこんな女郎がいた」「この街では……」と案内するガイドブックになっていました。

現在ならスマホ片手にその手の店舗を検索する感覚でしょうか。

二人が旅の前から情報を得ていたことは十分にありえますし、旅程からしてもその可能性は否定しきれません。

ただし、一つだけ免罪符があるとすれば、その立場でしょうか。

志士は武士ならば脱藩、それ以外でも家出同然の者が多い幕末期。明日、命があるかもわからない――というのは事実で、それがまた「旅の恥は掻き捨て」感覚を助長させたとも考えられます。

二人に限ったことではない話ですが、だからといってずっとそんな生活が続くワケでもありません。

 


志士は酒と色を拒まず

実際二人は上洛後に金が尽き、自炊生活になります。

となると、遊べません。貞操問題ではなく、金銭問題でストイックな生活に追われます。

大河ドラマ『青天を衝け』の劇中は、一橋家の黒川嘉兵衛に女を斡旋された栄一が憤然として断り、千代にも女狂いはしていないと文を送っていました。

しかし、こうした話を頭から鵜呑みにしてよいかどうかは別でしょう。

若い栄一が禁欲生活を送っていたはずもなく、その傍証はあります。

栄一と喜作が上洛する前年に【塙次郎忠宝暗殺事件】がありました。

長いこと真相不明であったこの事件について、栄一は伊藤博文が犯人であると証言しています。

伊藤博文/wikipediaより引用

こうしたことから、栄一は打ち明けないけれども、京都時代に尊王攘夷を掲げる志士と密な交流があったとわかる。

その中には天狗党の藤田小四郎、薄井龍之も含まれています。

天狗党は長州藩過激派と同志関係です。こうした人間関係の中に栄一も含まれている。

こうした尊王攘夷テロ活動の打ち合わせには、酒と女は欠かせません。ひとしきり遊んだ後の密室で計画を練る、カモフラージュも行われていました。

新選組隊士とも恋の鞘当てをしたと、本人が語り残しているほどです。

そんな建前と、女遊びを楽しむ本音――どちらもあるのが、渋沢栄一という人物でした。

 

世界を股にかけた恋愛が始まる時代

幕末は、新たな恋も生まれる時代でした。

来日した外国人たちは、こんな要求を持ち出すことがあったのです。

「日本の女性と刺激的な出会いが楽しみたい。お世話していただけませんか?」

うーん、何を言っているんだ……と、幕僚は苦い顔に。

それこそ攘夷主義者の徳川斉昭はカンカンになって激怒する話です。

もちろんハリスのように潔癖なプロテスタントもり、お吉を世話したにも関わらず手を出さなかったということもありますが、あれは例外。

日本側にしても、武士では無い層は「ビジネスチャンス!」としてホイホイ乗り気になってしまう。

日本人妻がいた来日外国人の記録と写真が残されているのも、そうした取引の積み重ねと言えるでしょう。

女性の着物は胸元がはだけていることもあったため、そうした姿を見て大興奮した外国人の話も残されています。

逆に、日本側の男性にしても、来日外国人が連れてくる妻に目が釘付けになりました。

髪の色や目の色が違っていようが、美女は美女である! そう興奮していたのです。

では栄一の場合は?

なにせ徳川昭武に随行してパリまで行ってますから、フランス人美女をじっくり観察する機会はありました。

慶応3年(1867年)の渋沢栄一/wikipediaより引用

渋沢栄一は漢籍に詳しいとされます。

古代中国から伝わった語彙で、フランス人美女を絶賛するという、なかなか味のある観察記が残っています。

二八の蛾眉!(2×8=16、十代の美女)

細軟軽窕!(さいなんけいちょう、細くて体が柔軟で軽やかでしなやか)

そのあたりのすれ違う婦人ですら、楊貴妃や西施にも劣らぬ美女ばかりである!

中国四大美女を例にして、なんという安売りをしているのか……そう嘆きたくもなりますが、本人がそれだけテンション上がってしまったのでしょう。

パリでの栄一は、プロの女性とアバンチュールを繰り広げたと振り返っています。

カトリックのフランスは、結婚後の交渉がそこまでとやかく言われません。要は、プロテスタントのイギリスやアメリカよりもゆるい。娼館にいるのではなく、流しのプロ女性もいました。

こんな美女を連れ帰って日本風に磨いたらますます輝くに違いない!

そう考えた栄一は、とある女性にこう訴えかけたのです。

「ぼくたちは別の国に生まれたけど、もう愛し合っているよね。でもぼくは今、公務でここまで来ている。連れて帰るわけにはいかないけど、日本まで追いかけて来てくれないか?」

果たして彼女は?

ハンカチを振りつつ冷たく返します。

「嘘にしたって許せる範囲じゃない。そんなに愛しているというのなら、それこそなんとしても一緒にいようとするでしょう? なのに別れてから追いかけて来い? ふざけないでよ」

渋沢栄一は何も言えませんでした。

明治の文学といえば森鴎外の『舞姫』が有名です。あの主人公は一体どんなメンタリティなのかと思った読者も多いことでしょう。

森鴎外/国立国会図書館蔵

渋沢栄一の価値観をたどるとヒントがあるかもしれませんね。

ただし、こうしたアバンチュールがもたらしたメリットもないわけではない。

まずは語学力。ある程度のフランス語を身につけていたとされます。

もうひとつ、渋沢は妾を「友人」と呼びました。

フランス語の「アミ」には、友人とか愛人という意味があります。そこからの連想かもしれません。

そしてパリからの帰国後、彼にはたくさんの「友人」ができることになるのです。

 

妻妾同居でも似ている君臣、慶喜と栄一

パリから帰国した栄一は、戊辰戦争に参加することはなく、駿府の生活を経て、スカウトのあと新政府に雇われます。

その経緯はさておき、ここから彼の私生活について考えてみましょう。

まずは駿府時代。

将軍ではなくなった徳川慶喜とその家臣は、徳川家父祖の地である駿府に向かいました。

ここで渋沢家は身を落ち着けますが、程なくして栄一は大蔵省に出仕し、大阪・造幣寮へ向かいました。

そして京都出身のくにという現地妻をもち、子を産ませたのです。

それだけなら権力者によくある話かもしれませんが、続きがなかなか眉をひそめたくなるものでした。

明治11年(1878年)、東京に新居を構えると、くにも呼び寄せ、千代と共に妻妾同居生活を堂々と始めたのです。

渋沢千代/wikipediaより引用

別宅にも「友人」こと愛人が複数おりました。

これはある意味、駿府での主君・慶喜にならったともいえます。

慶喜は駿府に移る際、側室の身辺整理をしました。

火消しの新門辰五郎の娘であるお芳らは実家に戻されたものの、女中扱いの新村信、中根幸は残りました。この二人との間に10男11女を儲けたのです。

私生活においても、徳川慶喜と渋沢栄一という君臣は似ていたのですね。

「そう目くじらたてなさんな!」

という意見も確かにあるのでしょう。

しかし、それが“時代”だけで片付けられないのは、当時から白眼視されていたことから明らかです。

幕臣らは慶喜を見て、こう漏らしていました。

「貴人情けを知らずとは、あの人のことだ」

明治の慶喜は世捨て人同然です。ゆえに好き勝手やっても、要人としての政治外交的配慮は必要ないでしょう。

※以下は「徳川慶喜」の関連記事となります

将軍を辞めた慶喜は明治以降何してた?せっせと子作り&趣味に興じるハッピー余生

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しかし栄一はちがいます。

それこそ粉骨砕身で新たな国づくりに挑んでいる最中。

だからこそ身辺もキレイにしておくべきなのか。

あるいは愛人の一人二人は大目に見てもよいのか。

現代人にしても人によって判断が分かれそうですが、なにより本人がこの件について弁明を用意しています。まずはそこを見てみましょう。

 


長州閥流飲みニケーションだったから

明治時代が訪れると、江戸っ子たちは舌打ちして薩長閥を眺めていました。

江戸の風情をぶち壊し、気持ち悪ぃ悪弊を持ち込みやがった。そう苦々しく振り返り「おはぎ(長州)と芋(薩摩)め!」と罵倒する。

江戸っ子お決まりの自慢はこうです。

「俺のじいさんはよォ、彰義隊として戦ったんでぇ!」

薩長には屈しない江戸っ子の強がりとでも言いましょうか。

では、そんな江戸っ子たちが苦い顔で見ていた薩長の悪弊とは?

薩摩については、野蛮な暴力性と男色です。

男色については、美少年を追いかけ回す性犯罪者集団「白袴隊」といった形で表面化しました。

そして長州は、ずばり女遊びです。

注目は、栄一とも仲がよい代表格の伊藤博文と井上馨。

井上馨/国立国会図書館蔵

渋沢栄一は弁解と自慢を込めつつ、こんな素晴らしい相手とつきあえるのも、女と酒がある席で、粋な遊びをしたからだと明かしています。

「私が行いが悪いということは、まあ、このお二人の影響もあるんですよね」

長州流のワイルドな飲みニケーション文化のせいで、自分も女遊びをしたということですね。

ただし、同時に攘夷テロ仲間でもあったことについては、大っぴらには語っていません。

そこにあるのは坂の上の雲なんかではなく、どす黒い欲望のようにも見えてきます……。

 

『論語』の超解釈

渋沢栄一と明治時代の理論をまとめてみましょう。

栄一の後妻である兼子は、人格者として知られる夫について、呆れながらこう言いました。

渋沢栄一や孫たちと渋沢兼子(右端)/wikipediaより引用

「あの人も『論語』とは上手いものを見つけなさったよ。あれが『聖書』だったら、てんで守れっこないものね」

そんな風に言われると『論語』には性的道徳規範がないように思えますが、もちろん違います。

論語にとっては迷惑千万。

渋沢栄一が好んだ漢籍でも「酒と色は節制すべきものである」と散々指摘されております。

要は、自己流解釈を拡大しがちなんですね。儒教であっても「心即理」を掲げた陽明学、その流れを汲む水戸学に若い頃から浸っていた渋沢栄一ならではの理論展開です。

心即理という言葉は、一歩間違えると危険です。

「心が欲したらいいんだよ!」

そんなお題目のもとに、加害欲求や破壊衝動も止められない――ゆえに明や清、朝鮮では危険思想扱いでした。

日本でも「寛政異学の禁」において陽明学は禁じられています。

しかし、だからこそなんでしょうか。熱狂的にハマり、心の赴くままに井伊直弼を暗殺してしまった。それが水戸学です。渋沢栄一が身につけていた理論とは、そういう危険な一面を有しているのです。

渋沢栄一流の超解釈な一例を挙げてみましょう。

『論語』「述而」から。

子、人と歌いて善(よ)ければ、必ず之(これ)を返さしめて、而る後に之に和す。

孔子は、誰かと歌って相手が優れていると、必ずその相手に繰り返し歌わせて、自ら一緒に歌っていた。

こう解釈できます。

それを渋沢栄一の『実験論語』にかかるとこういうことになる。

孔子は聖人君子のようだが、そういうわけでもない。誰かと一緒に嬉しそうに合唱することだってあった。

ここに彼なりの含みがあります。

幕末京都で志士をしていて、明治以降も長州閥と親しい渋沢栄一にとって「誰かと一緒に歌う」とは?

その連想相手は芸妓となります。

なぁんだ、孔子だってきっと美妓歌って飲んで騒いでいたんでしょ。そういう超解釈の余地が出てくる。

もちろん、これはあくまで渋沢栄一独特の超解釈。

孔子の『儀礼』を読めばそんなことはないとわかりそうなのに不思議でなりません。

清貧と理想に生きた孔子と、渋沢栄一を並列して賞賛するのはどうしても無理を感じるのはその点です。

いったい誰と歌ったか?

中国には琴棋書画の伝統があります。友情として歌い、楽器を演奏することもありました。

それに「竹林の七賢」の阮籍(げんせき)と嵆康(けいこう)は、そうして歌って話し合う男同士で“特別な友情”が芽生えた。そういうボーイズラブも成立する。

明治の薩摩閥なら「よかよか!」と破顔しそうな話が成立します。

大河の主役となった渋沢栄一が持ち上げられ『論語と算盤』がベストセラーとされていますが、その解釈は偏った時代精神や人生観が反映されていることを踏まえた方が無難でしょう。

儒教国家には、色欲に関する規定がない――そんなことはありません。

確かに一夫多妻制は認められている。玄宗と楊貴妃のように本業放棄でもしなければ、色狂いとはみなされない。

とはいえ、流石に兼子の言葉は言い過ぎだと思えるのです。

ここまで解釈するのだとすれば、それはあくまで夫・栄一が奔放であったことの反映にすぎません。

 


渋沢一族のキリスト教活用

渋沢栄一の妻・兼子の発言については、明治に受容されたキリスト教の影響を考えねばなりません。

キリスト教では嫡子と庶子の区別が厳格です。

例えばナポレオンには、父そっくりの庶子アレクサンドル・ヴァレフスキがおります。それでも母が愛人であったマリア・ヴァレフスカであるため、ナポレオン2世としては扱われませんでした。

アレクサンドル・ヴァレフスキ/wikipediaより引用

こうした相続制度から「キリスト教は性的に潔癖である」という印象がありますが、そんなことはありません。

フランス上流階級は婚外交渉がないと「枯れちゃったの?」と思われるほど奔放。

その影響は王政が終わろうと残り続けます。

プロテスタント国のイギリスでも、ヴィクトリア女王の息子たちがあまりに奔放で、散々そのことが問題視されていました。

ドイツでもスキャンダルはある。

それでも問題視されるだけまだマシであるし、清く正しいプロテスタントとして生きる人々もいる。

日本初のプロテスタント式婚礼によって結ばれた新島襄と八重夫妻は、異世界に生きるように思われてもおかしくはありません。

そう不満を漏らせるところが、兼子は明治の女性であるとも思えます。

幕末を生き抜いた千代は、そんな愚痴すら言わず、黙って涙を落とすばかりであったのですから。

兼子は、キリスト教を自分なりに受容し、適用したと思えることがあります。

渋沢一族と正式に認められる子は、嫡子のみとされました。

大勢いた庶子は認められず「渋沢同族会」に入れないとされたのです。

千代と兼子の子だけが、公式に渋沢一族として認められました。そうしなければならないほど、渋沢栄一には愛人との間の庶子が多かったのです。

 

抜群の自己プロデュースと力で隠し通す

時代は明治です。

栄一や慶喜がいくら言い訳をしたところで、食べ物にすら困っていた幕臣、奥羽越列藩同盟の藩士、屯田兵からすれば、二人の暮らしぶりは不愉快極まりないものがあったことでしょう。

渋沢栄一と気が合わなかったという、福沢諭吉がそんな苦い思いを代表して炸裂させています。

福沢諭吉/wikipediaより引用

「洋の東西、下劣なものはいくらでもいる。しかし、西洋と比べて我が国はどうだ? あまりに堂々としていて慎みがない!」

今なら週刊誌に掲載されていそうと思われるでしょうが、明治の世にもジャーナリズムはあります。

むしろ今では考えがたいほどの突撃取材もできる。

こうした醜聞は見逃されるはずがありません。

実際、明治31年(1898年)、気鋭のジャーナリストである黒岩涙香は『万朝報』にスクープ連載を掲載しました。

「弊風一斑 畜妾の実例」

現代風ならば、こんな感じですね。

「スクープ暴露! あの有名人のゲスの極み愛人とは!?」

住所と実名つきで、渋沢の二十代妾2名が暴露されたのです。

ただし、世間の反応はそこまで激烈でもありません。というのも当時は他にもスキャンダルが多すぎて、渋沢については埋没したのです。

どうしてそうなったのか? 原因を推理してみますと……。

・外面がよい

→福祉事業に力を入れていたこともあり、悪辣な印象が薄かった。醜聞が明らかになっても「えっ? 伊藤博文や桂太郎ならわかるけど渋沢栄一まで?」という反応もあったとか。

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・相対的にマシだった

→彼と仲の良かった伊藤博文や井上馨、長州閥の政治家は政治力が強い上にもっと派手に遊んでいました。それと比較すればマシですので、ジャーナリストもスクープ種としてそちらへ向かうのでした。

・妾がキャラ立ちしていない

→栄一本人、兼子の厳しい目線や管理もあったのか、悪目立ちするほどの存在はおりません。

当時、世間の憎しみを買ったスキャンダル女王には、山縣有朋の紹介で桂太郎の愛妾となったお鯉がいます。

このお鯉は当時典型的な悪婦とされ、日比谷焼討事件では「桂とともにお鯉を殺せ!」と叫ばれたとか。殺害脅迫状も大量に届いていたそうです。

そんな女性と比較すると、おとなしい女性を選んでいたわけですね。

・財力、権力、筆力がある

→長州閥の大物と仲がよろしいうえに、幕臣出身のジャーナリストである福地桜痴らとも交流があります。

福地桜痴/wikipediaより引用

なまじ節義にあつい幕臣は、清貧を選んだが故に権力と財力がない。

しかし渋沢栄一にはある。口に糊をするためにも、渋沢栄一の意向を受けてごまかす人は出てきます。

彼はある程度ジャーナリズムまで支配下におき、世論操作に長けていたんですね。

・カモフラージュ

→嘘をつくときは、ほんの少し真実を入れるとよいとされます。聖人君子じゃありません、美女は好き……そう告白すれば、世間はそれ以上突っ込もうとはしない。そんなカラクリはあります。

彼自身、女性関係では恥じるところがあるとおおっぴらに認めている。

その一方で、本当に隠蔽したかったであろう天狗党関連については口が重く、大正時代の最晩年にならねば追悼すらしていません。

実は「色好み」が目眩しとして使える話になっていたんですね。

・お笑い草にできた

→現在、昭和時代のコメディを見てギョッとすることはありませんか?

女性を性的にからかい、おちょくることで笑いを取っていた。今からすればとんでもない、そんな笑いがありました。

人間の進化とともに、かつての笑いが差別になることは普遍的な現象です。

渋沢栄一の女性関係の話は、ユーモア混じりで語られていることが多いもの。女性の嘆きは笑い話になる時代だからこそ、問題にはならかったのでしょう。

「いやあ、愛人宅にまで社長を呼びに行ったんですけど、絶対いるのにシラを切るんですよ。アハハ」

こんなふうに語られるだけで、終わってしまうのです。

もちろん、だからといって誰もが納得していたわけでもありません。

渋沢栄一の伝記『渋沢栄一伝』を執筆した幸田露伴は、渋沢栄一の話題になると、話を逸らすようになりました。

幸田露伴/wikipediaより引用

なまじ外面がよいだけに、面と向かって批判はし難い。

信じてもらえず、逆に自分がおかしいと思われかねない。ゆえに幸田露伴は話を逸らすしかなかったんですね。

 


「明治の倫理観」は受け入れられるのか?

2013年の大河ドラマ『八重の桜』放映時、こんなハッシュタグがSNSに登場しました。

#あんつぁまを鴨川に重石をつけて投げ込め

ヒロイン八重の兄である覚馬が、京都で時栄という愛人を作り、会津に残してきた妻・うらが離縁とされてしまった一件なのですが……。

覚馬は視力と脚の自由を失い、面倒を見る女性が必要ではありました。

それでもうらの涙に視聴者が感情移入し、あんな奴は鴨川に沈めろ!と怒りのハッシュタグをつけ、投稿していたのです。

この動きについては、あのドラマならではの誠意と、会津藩の事情があります。

会津藩では婚外の性的交渉は男女ともに禁止でした。

破れば離婚。

『八重の桜』では山本覚馬と梶原平馬(妻は山川ニ葉)が当てはまります。

この後も朝ドラと大河では「不誠実だったり浮気をする男性は河川に投げ込むべきだ!」という投稿がされました。

『青天を衝け』放映中の朝ドラでも、『おちょやん』でのヒロイン夫の不倫からの離婚が放映されると大反響。

『おかえりモネ』では、こんなことがありました。

◆朝ドラおかえりモネ「昭和の倫理観」トレンド入りでネット総ツッコミ!BSではトムさん→火野正平の奇跡のリレーも(→link

長くなりますが、引用させていただきます。

登米市でジャズ喫茶店を営む田中は肺がんを患っている。現在は独り身で、田中がなぜこうなったかを百音に明かす場面があった。

若いころは家族で生活していた田中だったが、複数の女性と浮気してしまい、愛想を尽かした妻が娘を連れて家を出て行ってしまったのだという。

この告白に百音はドン引き。

田中は「引くな、引くな、引くな…。いや、(当時は)割とよくある話だったんだよ。昭和の、倫理観だよ」と言い訳したが、平成世代の百音にその考えは理解できず、百音は「ひどい…ひどすぎます!奥さんかわいそう!」と怒りをあらわにした。

ちなみに田中は、同診療所の医師、菅波光太朗(坂口健太郎)にも自身の過去について打ち明けたが、菅波も百音と同様に「えっ…」と絶句。

田中は「ハハ…おいおい、先生もドン引きかよ。潔癖だねぇ」と苦笑いするしかなかった。

田中の衝撃告白にネットは総ツッコミ状態。

ツイッターには

「昭和の倫理観って何だ?昭和でもNGだぞトムさん」

「昭和の倫理観…って、んなモンで通るかい」

「昭和の倫理観ってそんな乱暴なwいつの時代でも顰蹙じゃないっすか?」

「昭和の倫理観w田中の倫理観では?w」

「モネちゃんが昭和を知らないのをいいことに昭和の歪んだ倫理観で押し通そうとするトムさん」

「昭和を知らない子が聞いたら『へぇ~昭和ってそんな感じだったんだ~』ってなってしまわんかこれw」

などの書き込みが殺到し、大ブーイングとなった。

「昭和の倫理観」ってなんなんだ?

そんな言い訳をしたところで酷いものは酷く、許されたものではない。

それが今の見方で、人間の倫理観も変わるものだと感じます。

だからこそ不思議でなりません。

『青天を衝け』ではむしろ夫婦愛をプッシュしている。

SNSにはこんな意見すらありました。

「史実の渋沢栄一なんてどうでもいい! 千代とこんなにステキなカップルなんだから、都合の悪いことは隠して欲しい」

不都合な史実よりも、甘い嘘が好まれるとはいかがなものでしょう?

それほどまでに甘ったるく夫妻を描くドラマの作り手の力量には感服するばかりです。

でも、それって大河でしてよいことなのか。

都合の悪いことは隠して好感度で世間の目を逸らす。そんな高度なテクニックを『青天を衝け』の作り手は渋沢栄一本人から学んだとすら思えてきます。

怖い作品です。


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【参考文献】
鹿島茂『渋沢栄一』(→amazon
土屋喬雄『渋沢栄一』(→amazon
芳賀登『幕末志士の世界』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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