豊臣秀吉の妻である茶々(淀殿)。
徳川秀忠の妻である江。
いわゆる浅井三姉妹の長女と三女の二人は、当時の最高権力を握っていた男たちを夫としていました。
では浅井三姉妹の真ん中・次女である初(常高院)は?
もしかしたら即座に解答が出てこないかもしれない、二人に比べて地味な存在ですが……大坂冬の陣では交渉役を担うなど、重要局面で女性ならではの存在感を発揮していました。
寛永10年8月27日(1633年9月30日)はそんな彼女の命日。
浅井長政とお市の方の次女は、一体どんな女性だったのか?
初(常高院)の生涯を振り返ってみましょう。

初(常高院)/wikipediaより引用
北近江の戦国大名・浅井氏の若き当主長政
戦国時代、近江には主に二つの戦国大名家がありました。
北近江の浅井氏。
南近江の六角氏。
六角氏が宇多源氏佐々木氏の流れを汲む、名のある武家であるのに対し、浅井氏はそうではない。
初代の浅井亮政は推定15世紀末の生まれで、もともとは京極高清氏に使える国衆でした。

浅井亮政/wikipediaより引用
それが他の国衆と手を結んで一揆を起こし、主君を追い出す下剋上を体現。
石高もそこまで大きくなく、12万石程度とされます。
確かに近江は琵琶湖から上がる各種の水運利益も大きいですが、それでも浅井氏は六角氏の顔色を窺いながら領国経営に取り組まねばならない。
そんな状況ですから、亮政の嫡孫は、六角義賢の偏諱から浅井賢政と名乗っています。
結婚相手も六角氏に決められました。

六角承禎(六角義賢)の錦絵/wikipediaより引用
しかし、六角氏の干渉に納得できない賢政は、父の浅井久政(亮政の子)を隠居させると、六角氏のすすめで娶った妻とは離縁。
改名して「長政」を名乗るようになります。
実はこの永禄3年(1560年)のとき、浅井長政はまだ16歳に過ぎない若武者です。
その歳にしてここまで成し遂げる手腕は素晴らしいものがありますが、六角氏の支配から完全な脱却となると、対抗できる勢力を味方につけねばなりません。
そんな長政の要望に適う相手は、近江の外にいました。
織田家です。
織田信長の妹・市との結婚
美濃の斎藤氏を制して西へのルートを確保したい織田信長。
六角氏を牽制するための味方が欲しい浅井長政。
両家の思惑が見事に合致し、そこで長政のと結ばれた縁談相手が信長の妹・お市でした。

浅井長政(左)とお市の方/wikipediaより引用
“絶世の美女”とされ、フィクションでは必ずのように強調されますが、実際問題、戦国大名同士の婚姻で重要なのは何より関係強化です。
信長には姉妹が多く、お市が選ばれたのは美貌よりも適齢期ということでしょう。
いずれにせよ浅井にしても織田にしても待望の同盟相手。
浅井長政と織田市は夫婦となりましたが、結婚の時期は確定されておらず諸説あります。
永禄4年(1561年)
永禄6年(1563年)
永禄7年(1564年)
永禄10年から11年はじめ(1567年)
最も遅い永禄10年前後となると、信長は既に重要な出来事を成し遂げています。
北陸にいた足利義昭を擁しての上洛です。

足利義昭(左)と織田信長/wikipediaより引用
このとき北近江に義弟・浅井長政がいることは信長にとって大きなメリットであり、それ以前から姻戚関係が結ばれていたことは間違いないでしょう。
では、長政とお市の間に生まれた子供の生年はいつなのか?
お市が母であると確定している長政の子は以下の3名。
茶々(淀殿・永禄12年・1569年)※諸説あり
初(常高院・元亀元年・1570年)
江(崇源院・天正元年・1573年)
いわゆる浅井三姉妹ですね。
本稿の主人公である初は、元亀元年(1570年)に生を受けました。姉の茶々(淀殿)とは一歳差だったんですね。
父・長政が伯父・信長に敗れる
戦国大名の同盟関係は、状況により重要度も左右されます。
信長は首尾よく美濃の斎藤氏を打ち破りました。
しかし足利義昭との関係は悪化してゆき、ついに決裂すると、義昭は信長打倒を呼びかける書状を各地の大名に送ります。その中には朝倉義景がいてもおかしくはありません。

朝倉義景/wikipediaより引用
信長は、朝倉を打破すべく、軍を動かします。
初が生まれた元亀元年(1570年)、3万が織田勢が越前に侵攻し、朝倉方の城を落としてゆくのです。
このとき信長は、義弟の浅井長政が北近江にいるからには、背後を気にせず越前攻めに集中できると安心していたことでしょう。
しかし、よく知られるように、長政は突如として信長を裏切り、織田軍の背後を衝こうとした。
そして敵地に深く入り込み、背中から襲われた織田勢は、後世に【金ヶ崎の退き口】と称される撤退戦に追い込まれます。
北は朝倉、南は浅井に挟まれ絶体絶命の逃走を開始した織田軍。
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金ヶ崎の退き口|浅井長政に裏切られ絶体絶命の窮地に陥った信長や秀吉の撤退戦
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結果、秀吉らの奮闘もあって、一足先に越前を抜け出した信長は京都へ無事に帰還を果たしました。
義昭はこの争いを仲介したものの、長くは続きません。翌年には【姉川の戦い】で両者は激突します。
まだ幼い茶々と初を抱えて、母の市はどれほど気を揉んだことでしょうか。
信長を追い込むための包囲網は盤石と言えず、織田軍と真正面からぶつかりあうことになった浅井は徐々に追い詰められ、天正元年(1573年)、ついに滅亡しました。
浅井三姉妹の父である長政は自害に追い込まれ、市は三人の娘(茶々・初・江)を抱えて城外へ脱出します。

浅井三姉妹イメージ/絵・富永商太
妹の江は、このときまだ生まれたばかりの赤ん坊でした。
浅井家と織田家は、初が生まれたころには同盟が決裂していました。にも関わらず、市は滅びるまで浅井家に留まり続け、江を産んでいます。
それほどまでに深い夫婦愛があったのか。
長政の男児である浅井万福丸は磔刑となっていて、市の実子であるとは見なされていません。
茶々・初・江の浅井三姉妹はその後、どう生き延びたのか?
市、柴田勝家と再婚
浅井家を出た市と浅井三姉妹は、織田信包の伊勢上野城に預けられました。
市はまだ嫁げるとみなされたのでしょうか、落飾していません。
彼女の運命が動くのは、9年後の天正10年(1582年)のこと。
兄である織田信長とその嫡子・織田信忠が、明智光秀により討たれると(【本能寺の変】)、今度はその光秀が羽柴秀吉に討たれ、織田家内は混沌とします。
信忠の子である三法師を次の織田家当主とするにせよ、彼はまだ幼主。
実質的に誰が織田家を差配するのか?
ということを話し合う【清州会議】が始まります。

絵本太閤記に描かれた豊臣秀吉と三法師/wikipediaより引用
信長の死後、市と浅井三姉妹は岐阜城に移されていました。
初を含む三姉妹の“母”ということだけでなく、信長の妹という立場である市も、会議での重大な議題の一つです。
信長の二男・織田信孝は、もともと秀吉の台頭に警戒心を抱いていましたが、秀吉と並ぶ有力者の柴田勝家に市を嫁がせれば大いに牽制となる。
結果、市は政治的思惑により、柴田勝家の妻となり、初たち三姉妹も北陸へ移されることとなりました。

喜多川歌麿の描いた柴田勝家とお市の方/wikipediaより引用
フィクションではしばしば「絶世の美女である市に対し、秀吉が憧れていた」というような表現が挿し込まれます。
後に、市の娘である茶々が秀吉の側室になることも影響しているのでしょう。
かくして市と三姉妹は、勝家のいる越前北ノ庄城へ入りますが、幸せは長く続きません。
日増しに勢いの出ていく秀吉は天正11年(1583年)、【賤ヶ岳の戦い】で勝家を破り、城に追い詰めます。
妻や女房を刺し殺し、腹を切る勝家。
二度目の落城と夫の死を前にして、今度の市はもはや落ち延びようとはしませんでした。
そして親を失った浅井三姉妹は、秀吉に庇護される身となったのです。
秀吉の婚礼手駒としての三姉妹
秀吉にとって、この三姉妹は大きな財産です。
低い身分から成り上がった秀吉には、男女共に親族が多くはない。彼自身も子ができず、婚姻に使える手駒は限らえた状態です。
この頃の秀吉は、残された織田一族たちを殲滅するどころか、むしろ庇護し、己の一族のように扱います。
特に婚姻の適齢期を迎える浅井三姉妹は宝のようなもの。
ゆえに大切に扱うべく叔父である信長の弟・織田有楽斎に預けられたとされます。有楽斎は茶人として秀吉のもとにいて、養育者としてふさわしい人物と言えました。

織田有楽斎/wikipediaより引用
三姉妹は秀吉の思惑により、婚礼が決められ、まず最年少の江(当時12歳)から相手が決まりました。
天正12年(1584年)、尾張大野城主・佐治一成のもとへ嫁ぎます。
一成の母は信長の妹・犬であり、市の姉にあたります。
つまり江と一成はいとこ同士の婚礼でしたが、この結婚は佐治一成が、秀吉と敵対する織田信雄側についたため、すぐに終わりました。
天正15年(1587年)頃になると、初の嫁ぎ先も決まります。
京極高次です。

京極高次/wikipediaより引用
高次の母は長政の姉であり、こちらもイトコ同士の婚礼。
それだけでなく高次の姉妹である京極竜子は、秀吉の妻として寵愛されていました。そうした縁があり、妹の江よりは破綻しにくい状況です。
そして姉の茶々は、天正16年(1588年)頃、秀吉の妻となったと推察されます。第一子・鶴松の出生である天正17年からの逆算です。
関ヶ原の戦い
婚礼により、浅井三姉妹の命運は別れます。

浅井三姉妹・左からお江(崇源院)・茶々(淀殿)・初(常高院)/wikipediaより引用
三女の江は、豊臣秀勝と再婚するも、夫は【朝鮮出兵】で渡海し、陣没。
亡き夫の子と残された江は、徳川家康の嫡男・徳川秀忠に嫁ぐこととなります。
長女の茶々は、秀吉待望の男児を産みました。
このとき淀城で出産したことから彼女は「淀殿」と呼ばれるようになります。
長男は夭折するも、二男の豊臣秀頼は無事に成長。
しかし、夫の豊臣秀吉が死ぬと、権力争いの渦中にあって淀殿の運命は激しく揺さぶられてゆきます。
こうした姉妹に挟まれた初は、非常に安定した日々を過ごしていました。
夫・京極高次の浮沈が穏やかだったからでしょう。
それでも時代が時代ですから、一寸先は闇であり、安穏と落ち着いてはいられない。
実際、危険な局面は、慶長5年(1600年)にやってきました。
【関ヶ原の戦い】です。
京極高次は、秀吉の妻である竜子の兄弟です。石田三成ら西軍は「味方である」と考えていました。
しかし高次は、徳川家康の東軍を選びます。

絵・富永商太
このため大津城に籠城していた高次は、西軍の侵攻にさらされてしまうのです。
そんな高次のピンチを救ったのは、姉妹である竜子と、秀吉の妻たちの連携でした。北政所と茶々は、竜子とその一族を救うべく動いたのです。
結果、関ヶ原の戦い後の高次は、西軍を足止めした功績ゆえ、若狭小浜8万5千石を与えられます。
こうした女性のネットワークにより救われせいか、京極高次は「蛍大名(尻が光る蛍・女の尻の力で成り上がった大名)」という不名誉な別名もあります。
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しかし見方が違うのでは?
戦国末期は女性の権限が保たれていた。だから女性陣のネットワークが高次救済に一役買ったのだ、と。
家康の勝利と将軍宣下により、女性の権利が低下していく江戸時代が始まります。
初の姉である茶々は、そんな時代最後の女性城主として、さらなる悲運に巻き込まれてゆきます。
大坂の陣で和睦交渉役をつとめる
浅井三姉妹の中では、非常に穏やかな生涯を送ることのできていた初。
慶長14年(1609年)に夫・高次が没すると、同家では庶子の忠高が跡を継ぎました。
忠高の正室は、秀忠と江の四女・初(初姫)となります。“初”とは、本人と名前が同じで、あまりにもややこしいですが……。
一方、本稿の主人公である初は落飾し、常高院となりました。
出家したことで、さらない平穏な日々が訪れた……とはなりません。
姉である淀殿(茶々)は、息子の豊臣秀頼と共に大坂城にいて、なかなか動こうとはしません。

豊臣秀頼/wikipediaより引用
せめて大坂城から出て、別の地域へ移封となれば豊臣家の存続も十分可能であろうに、まるで話が進まない。
結果、浅井三姉妹はこの動乱に巻き込まれてゆきます。
秀頼のもとには、江の娘である千姫が嫁いでいます。茶々と千姫という伯母と姪は、姑と嫁という関係でもありました。
しかしそんな婚姻関係だけではどうにもならないほど、破綻の緊張感は高まっていたのです。
慶長19年(1614年)、緊張はついに限界を迎えました。
【方広寺鐘銘事件】が契機となり、ついに【大坂夏の陣】が勃発したのです。

方広寺鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」/wikipediaより引用
このとき、和議のために奔走した女性がいます。家康の側室である阿茶局と、この常高院です。
豊臣方の女性城主は淀殿とみなされていました。女性には、男性の交渉事とは違うペースがある。そう見なされていたようで、女性でこそ話が進むという意識もあったよう。
常高院の奔走もあり、ついに和議は成立したのでした。
浅井三姉妹最後の一人
常高院たちの交渉により結ばれた大坂冬の陣の和議。
城中に秀吉の遺児が残り、多くの浪人たちも集まったままでは、破綻は目に見えています。
しかし、大坂城にはもはや彼らを制御できる力はなく、死に場所を求めて戦いに進むしかありません。
迎えた慶長19年(1614年)、【大坂夏の陣】が勃発。

大坂夏の陣図屏風/wikipediaより引用
燃え盛る大坂城で、初の姉・淀殿と、その息子の秀頼が自刃し、豊臣家は滅びました。
このとき、救出された者もいます。千姫と、秀頼の子である女児です。
秀頼の男児は全て処刑されたものの女児は救われ、天秀尼として鎌倉東慶寺の住職になっています。
★
晩年の常高院は、妹の江としばしば語り合っていたとされます。
しかし、そんな妹も寛永3年(1626年)、姉に先んじて亡くなり、寛永10年(1633年)には浅井三姉妹最後の一人となっていた常高院も、京極忠高の江戸屋敷で息を引き取りました。
享年64。
世の流れに翻弄された姉妹を見送ったあと、静かに世を去ったのでした。
常高院は、他の姉妹ほど夫が重要人物ではなく、子もいません。
しかし、女性の権力を考える上で重要な存在と言えます。
【関ヶ原の戦い】では、京極高次を救うべく、秀吉の妻たちが動きました。
【大坂の陣】では、和睦交渉において常高院と阿茶局が重要な役割を担っています。
ジェンダーの歴史を踏まえる上で、彼女の役割は今後さらに見直されてゆくはず。目が離せない存在であることは間違いないでしょう。
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参考文献
- 小和田哲男『お江 戦国の姫から徳川の妻へ』(角川学芸出版, 2010年, ISBN: 978-4046532152)
出版社ページ: KADOKAWA Group 公式サイト - 渡邉大門『戦国大名の婚姻戦略』(角川SSコミュニケーションズ, 2010年, ISBN: 978-4047315136)
出版社ページ: KADOKAWA Group 公式サイト - 福田千鶴『淀殿』(ミネルヴァ書房, 2007年, ISBN: 978-4623048106)
出版社ページ: ミネルヴァ書房 公式サイト






