初(常高院)

初(常高院)/wikipediaより引用

浅井・朝倉家

浅井三姉妹の次女・初(常高院)大坂冬の陣で交渉役を務めた存在感

豊臣秀吉の妻である茶々(淀殿)。

徳川秀忠の妻である江。

いわゆる浅井三姉妹の長女と三女の二人は、当時、最高権力を握っていた男たちを夫としていました。

では浅井三姉妹の次女である初(常高院)は誰に嫁いだか?

もしかしたら即座に解答が出てこないかもしれない、二人に比べて地味な存在ですが、だからこそ彼女は多少なりとも穏やかな日々を過ごせたのかもしれません。

しかし、大坂冬の陣では交渉役を担うなど、重要局面で女性ならではの存在感も発揮しているのが、この初。

そこで注目してみたい。浅井三姉妹の真ん中・初(常高院)は一体どんな女性だったのか?

父は浅井長政、母は織田信長の妹であるお市の方

彼らの次女である初の生涯を振り返ってみましょう。

 

北近江の戦国大名・浅井氏の若き当主長政

戦国時代、近江には主に二つの戦国大名家がありました。

北近江の浅井氏。

南近江の六角氏。

六角氏が宇多源氏佐々木氏の流れを汲む、名のある武家であるのに対し、浅井氏はそうではない。

初代の浅井亮政は延徳3年(1491年)生まれで、もともとは京極高清氏に使える国衆でした。

それが他の国衆と手を結んで一揆を起こし、主君を追い出す下剋上を体現。

石高もそこまで大きくなく、12万石程度とされます。

確かに近江は琵琶湖から上がる各種の水運利益も大きいですが、それでも浅井氏は六角氏の顔色を窺いながら領国経営に取り組まねばならない。

そんな状況ですから、亮政の嫡孫は、六角義賢の偏諱から浅井賢政と名乗っています。結婚相手も六角氏に決められました。

しかし、六角氏の干渉に納得できない賢政は、父の亮政を隠居させると、六角氏のすすめで娶った妻とは離縁。

改名して「長政」を名乗るようになります。

実はこの永禄3年(1560年)のとき、長政はまだ16歳に過ぎない若武者です。

その歳にしてここまで成し遂げる手腕は素晴らしいものがありますが、六角氏の支配から完全な脱却となると、対抗できる勢力を味方につけねばなりません。

そんな長政の要望に適う相手は、近江の外にいました。

織田家です。

※以下は浅井長政の生涯まとめ記事となります

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織田信長の妹・市との結婚

美濃の斎藤氏を制して西へのルートを確保したい織田信長。

六角氏を牽制するための味方が欲しい浅井長政。

両家の思惑が見事に合致し、そこで長政のと結ばれた縁談相手が信長の妹・お市でした。

お市の方
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“絶世の美女”とされ、フィクションでは必ずのように強調されますが、実際問題、戦国大名同士の婚姻で重要なのは何より関係強化です。

信長には姉妹が多く、お市が選ばれたのは美貌よりも適齢期ということでしょう。

いずれにせよ浅井にしても織田にしても待望の同盟相手。

浅井長政と織田市は夫婦となりましたが、結婚の時期は確定されておらず諸説あります。

永禄4年(1561年)
永禄6年(1563年)
永禄7年(1564年)
永禄10年から11年はじめ(1567年)

最も遅い永禄10年前後となると、信長は既に重要な出来事を成し遂げています。

北陸にいた足利義昭を擁しての上洛です。

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このとき北近江に義弟・浅井長政がいることは信長にとって大きなメリットであり、それ以前から姻戚関係が結ばれていたことは間違いないでしょう。

では、長政とお市の間に生まれた子供の生年はいつなのか?

お市が母であると確定している長政の子は以下の3名。

茶々(淀殿・永禄12年・1569年)※諸説あり

初(常高院・元亀元年・1570年)

江(崇源院・天正元年・1573年)

いわゆる浅井三姉妹ですね。

本稿の主人公である初は、元亀元年(1570年)に生を受けました。姉の茶々(淀殿)とは一歳差だったんですね。

 

父・長政が伯父・信長に敗れる

戦国大名の同盟関係は、状況により重要度も左右されます。

信長は首尾よく美濃の斎藤氏を打ち破りました。

しかし足利義昭との関係は悪化してゆき、ついに決裂すると、義昭は信長打倒を呼びかける書状を各地の大名に送ります。その中には朝倉義景がいてもおかしくはありません。

信長は、朝倉を打破すべく、軍を動かします。

初が生まれた元亀元年(1570年)、3万が織田勢が越前に侵攻し、朝倉方の城を落としてゆくのです。

このとき信長は、義弟の浅井長政が北近江にいるからには、背後を気にせず越前攻めに集中できると安心していたことでしょう。

しかし、よく知られるように、長政は突如として信長を裏切り、織田軍の背後を衝こうとした。

そして敵地に深く入り込み、背中から襲われた織田勢は、後世に【金ヶ崎の退き口】と称される撤退戦に追い込まれます。

北は朝倉、南は浅井に挟まれ絶体絶命の逃走を開始した織田軍。

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結果、秀吉らの奮闘もあって、一足先に越前を抜け出した信長は京都へ無事に帰還を果たしました。

義昭はこの争いを仲介したものの、長くは続きません。翌年には【姉川の戦い】で両者は激突します。

まだ幼い茶々と初を抱えて、母の市はどれほど気を揉んだことでしょうか。

信長を追い込むための包囲網は盤石と言えず、織田軍と真正面からぶつかりあうことになった浅井は徐々に追い詰められ、天正元年(1573年)、ついに滅亡しました。

浅井三姉妹の父である長政は自害に追い込まれ、市は三人の娘(茶々・初・江)を抱えて城外へ脱出します。

妹の江は、このときまだ生まれたばかりの赤ん坊でした。

浅井家と織田家は、初が生まれたころには同盟が決裂していました。にも関わらず、市は滅びるまで浅井家に留まり続け、江を産んでいます。

それほどまでに深い夫婦愛があったのか。

長政の男児である万福丸は磔刑となっていて、市の実子であるとは見なされていません。

茶々・初・江の浅井三姉妹はその後、どう生き延びたのか?

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