こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【初(常高院)】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
市、柴田勝家と再婚
浅井家を出た市と浅井三姉妹は、織田信包の伊勢上野城に預けられました。
市はまだ嫁げるとみなされたのでしょうか、落飾していません。
彼女の運命が動くのは、9年後の天正10年(1582年)のこと。
兄である織田信長とその嫡子・織田信忠が、明智光秀により討たれると(【本能寺の変】)、今度はその光秀が羽柴秀吉に討たれ、織田家内は混沌とします。
信長の嫡男・織田信忠が生き残れば織田政権は続いた?26年の儚い生涯
続きを見る
信忠の子である三法師を次の織田家当主とするにせよ、彼はまだ幼主。
実質的に誰が織田家を差配するのか?
ということを話し合う【清州会議】が始まります。
信長の死後、市と浅井三姉妹は岐阜城に移されていました。
初を含む三姉妹の“母”ということだけでなく、信長の妹という立場である市も、会議での重大な議題の一つです。
信長の二男・織田信孝は、もともと秀吉の台頭に警戒心を抱いていましたが、秀吉と並ぶ有力者の柴田勝家に市を嫁がせれば大いに牽制とななる。
かくして市は政治的思惑により、柴田勝家の妻となり、初たち三姉妹も北陸へ移されることとなりました。
柴田勝家はなぜ秀吉に敗れたのか? 織田家を支えた宿老62年の生涯まとめ
続きを見る
フィクションではしばしば「絶世の美女である市に対し、秀吉が憧れていた」というような表現が挿し込まれます。
後に、市の娘である茶々が秀吉の側室になることも影響しているのでしょう。
かくして市と三姉妹は、勝家のいる越前北ノ庄城へ入りますが、幸せは長く続きません。
日増しに勢いの出ていく秀吉は天正11年(1583年)、【賤ヶ岳の戦い】で勝家を破り、城に追い詰めます。
妻や女房を刺し殺し、腹を切る勝家。
二度目の落城と夫の死を前にして、今度の市はもはや落ち延びようとはしませんでした。
そして親を失った浅井三姉妹は、秀吉に庇護される身となったのです。
秀吉の婚礼手駒としての三姉妹
秀吉にとって、この三姉妹は大きな財産です。
低い身分から成り上がった秀吉には、男女共に親族が多くはない。彼自身も子ができず、婚姻に使える手駒は限らえた状態です。
この頃の秀吉は、残された織田一族たちを殲滅するどころか、むしろ庇護し、己の一族のように扱います。
特に婚姻の適齢期を迎える浅井三姉妹は宝のようなもの。
ゆえに大切に扱うべく叔父である信長の弟・織田有楽斎に預けられたとされます。有楽斎は茶人として秀吉のもとにいて、養育者としてふさわしい人物と言えました。
信長の弟・織田有楽斎(長益)が淀殿を支え その決断が大坂の陣へ
続きを見る
三姉妹は秀吉の思惑により、婚礼が決められ、まず最年少の江(当時12歳)から相手が決まりました。
天正12年(1584年)、尾張大野城主・佐治一成のもとへ嫁ぎます。
一成の母は信長の妹・犬であり、市の姉にあたります。
つまり江と一成はいとこ同士の婚礼でしたが、この結婚は佐治一成が、秀吉と敵対する織田信雄側についたため、すぐに終わりました。
天正15年(1587年)頃になると、初の嫁ぎ先も決まります。
京極高次です。
高次の母は長政の姉であり、こちらもイトコ同士の婚礼。
それだけでなく高次の姉妹である京極竜子は、秀吉の妻として寵愛されていました。そうした縁があり、妹の江よりは破綻しにくい状況です。
そして姉の茶々は、天正16年(1588年)頃、秀吉の妻となったと推察されます。第一子・鶴松の出生である天正17年からの逆算です。
※続きは【次のページへ】をclick!