初(常高院)

初(常高院)/wikipediaより引用

浅井・朝倉家

浅井三姉妹の次女・初(常高院)地味な彼女が存在感を発揮した大坂の陣での交渉役

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関ヶ原の戦い

婚礼により、浅井三姉妹の命運は別れます。

三女の江は、豊臣秀勝と再婚するも、夫は【朝鮮出兵】で渡海し、陣没。

亡き夫の子と残された江は、徳川家康の嫡男・徳川秀忠に嫁ぐこととなります。

長女の茶々は、秀吉待望の男児を産みました。

このとき淀城で出産したことから彼女は「淀殿」と呼ばれるようになります。

長男は夭折するも、二男の豊臣秀頼は無事に成長。

しかし、夫の豊臣秀吉が死ぬと、権力争いの渦中にあって淀殿の運命は激しく揺さぶられてゆきます。

こうした姉妹に挟まれた初は、非常に安定した日々を過ごしていました。

夫・京極高次の浮沈が穏やかだったからでしょう。

それでも時代が時代ですから、一寸先は闇であり、安穏と落ち着いてはいられない。

実際、危険な局面は、慶長5年(1600年)にやってきました。

関ヶ原の戦い】です。

京極高次は、秀吉の妻である竜子の兄弟です。石田三成ら西軍は「味方である」と考えていました。

しかし高次は、徳川家康の東軍を選びます。

このため大津城に籠城していた高次は、西軍の侵攻にさらされてしまうのです。

そんな高次のピンチを救ったのは、姉妹である竜子と、秀吉の妻たちの連携でした。北政所と茶々は、竜子とその一族を救うべく動いたのです。

結果、関ヶ原の戦い後の高次は、西軍を足止めした功績ゆえ、若狭小浜8万5千石を与えられます。

こうした女性のネットワークにより救われせいか、京極高次は「蛍大名(尻が光る蛍・女の尻の力で成り上がった大名)」という不名誉な別名もあります。

京極高次
近江の戦国武将・京極高次が「蛍大名」と揶揄されてしまった理由とその生涯

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しかし見方が違うのでは?

戦国末期は女性の権限が保たれていた。だから女性陣のネットワークが高次救済に一役買ったのだ、と。

家康の勝利と将軍宣下により、女性の権利が低下していく江戸時代が始まります。

初の姉である茶々は、そんな時代最後の女性城主として、さらなる悲運に巻き込まれてゆきます。

 


大坂の陣で和睦交渉役をつとめる

浅井三姉妹の中では、非常に穏やかな生涯を送ることのできていた初。

慶長14年(1609年)に夫・高次が没すると、同家では庶子の忠高が跡を継ぎました。

忠高の正室は、秀忠と江の四女・初(初姫)となります。“初”とは、本人と名前が同じで、あまりにもややこしいですが……。

一方、本稿の主人公である初は落飾し、常高院となりました。

出家したことで、さらない平穏な日々が訪れた……とはなりません。

姉である淀殿(茶々)は、息子の豊臣秀頼と共に大坂城にいて、なかなか動こうとはしません。

せめて大坂城から出て、別の地域へ移封となれば豊臣家の存続も十分可能であろうに、まるで話が進まない。

結果、浅井三姉妹はこの動乱に巻き込まれてゆきます。

秀頼のもとには、江の娘である千姫が嫁いでいます。茶々と千姫という伯母と姪は、姑と嫁という関係でもありました。

しかしそんな婚姻関係だけではどうにもならないほど、破綻の緊張感は高まっていたのです。

慶長19年(1614年)、緊張はついに限界を迎えました。

【方広寺鐘銘事件】が契機となり、ついに【大坂夏の陣】が勃発したのです。

このとき、和議のために奔走した女性がいます。家康の側室である阿茶局と、この常高院です。

豊臣方の女性城主は淀殿とみなされていました。女性には、男性の交渉事とは違うペースがある。そう見なされていたようで、女性でこそ話が進むという意識もあったよう。

常高院の奔走もあり、ついに和議は成立したのでした。

 


浅井三姉妹最後の一人

常高院たちの交渉により結ばれた大坂冬の陣の和議。

城中に秀吉の遺児が残り、多くの浪人たちも集まったままでは、破綻は目に見えています。

しかし、大坂城にはもはや彼らを制御できる力はなく、死に場所を求めて戦いに進むしかありません。

迎えた慶長19年(1614年)、【大坂夏の陣】が勃発。

燃え盛る大坂城で、初の姉・淀殿と、その息子の秀頼が自刃し、豊臣家は滅びました。

このとき、救出された者もいます。千姫と、秀頼の子である女児です。

秀頼の男児は全て処刑されたものの女児は救われ、天秀尼として鎌倉東慶寺の住職になっています。

晩年の常高院は、妹の江としばしば語り合っていたとされます。

しかし、そんな妹も寛永3年(1626年)、姉に先んじて亡くなり、寛永10年(1633年)には浅井三姉妹最後の一人となっていた常高院も、京極忠高の江戸屋敷で息を引き取りました。

享年64。

世の流れに翻弄された姉妹を見送ったあと、静かに世を去ったのでした。

常高院は、他の姉妹ほど夫が重要人物ではなく、子もいません。

しかし、女性の権力を考える上で重要な存在と言えます。

【関ヶ原の戦い】では、京極高次を救うべく、秀吉の妻たちが動きました。

【大坂の陣】では、和睦交渉において常高院と阿茶局が重要な役割を担っています。

ジェンダーの歴史を踏まえる上で、彼女の役割は今後さらに見直されてゆくはず。目が離せない存在であることは間違いないでしょう。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
小和田哲男『お江 戦国の姫から徳川の妻へ』(→amazon
渡邉大門『戦国大名の婚姻戦略』(→amazon
福田千鶴『淀殿』(→amazon

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