鎌倉時代に鹿児島の守護地頭となり、以来、彼の地を守ること約800年。
常に優れた君主を輩出してきたとして
【島津に暗君なし】
という言葉があります。
大河ドラマ『西郷どん』では、島津斉彬の父・島津斉興がまるで権力にしがみつく老害のように描かれておりましたが、実際はさにあらず。
先代までに、膨らみに膨らんだ500万両もの借金を整理したのは斉興とその腹心・調所広郷であり、史実では外国事情にも十分に通じておりました。

調所広郷/wikipediaより引用
彼らだけでなく、実際、江戸期12代の薩摩藩主すべてを見渡してみても、島津にはたしかに優れた人が多いのです。
ただし……。
名君の器量を持ってしても、どうにもならない事情が薩摩にはありました。
それが「財政難」です。
財政難は、巡り巡って数多くの「流刑人」を産み落とします。
名君と同時に流刑人も多し――そんな薩摩の特殊な事情を振り返ってみましょう。
借金と財政改革からのお家騒動
さつま芋を育てやすい代わりに米が育ちにくく、他藩と比して武士の比率が極めて高い――そのぶん生産者層が減る薩摩藩は、全国有数の大藩なれど、財政状況はかなり厳しい自転車操業でした。
なんとか切り盛りしていても、ときには思い切った財政改革に着手せねばならない。
借金をどうにかしようとした結果、権力闘争(御家騒動)が起こります。
ただし、幕府からお取り潰しに遭うようなヘタだけは打てません。
権力闘争には処罰を持ってして対処し、それでケジメをつけていた。
そのため切腹処分を受ける者や流刑人が、かなりの数に上りました。
そういう暗い一面も、薩摩藩の歴史にあったのですね。
御家騒動の結果、誰かが流されてしまう
奄美大島や周辺の沖永良部島など。
薩摩藩からの流刑人のうち67パーセント、実に7割近くが武士階級の者たちでした。
政治争いの成れの果てです。
とりわけ流刑人が目に見えて多くなるのは、蘭癖大名として名高い(悪名高い?)8代・島津重豪(しげひで)から。
彼は将軍家と姻戚関係を結び、薩摩藩の名を高めた精力的な主君として知られています。
しかしその一方で「蘭癖=西洋流」の政治改革で派手に散財し、藩に莫大な借財を作った張本人でもあります。
結果、緊縮財政を目指した9代・斉宜と政治的に対立したわけですね。
この
【蘭癖の派手な殿 vs 堅実な殿】
という構造は、10代・島津斉興と11代・島津斉彬でも続きます。
そしてそれは後の【お由羅騒動】にも繋がりました。
政治闘争は死人も多数出し、同時に多くの流刑人も送りだしたのです。
ドラマ『西郷どん』では、こうした処断を悪逆非道かつ前代未聞のように誇張しがちでした。
しかし、江戸時代後期の薩摩藩では宿命みたいなもんです。
窃盗や贈収賄といった犯罪で流刑となる者もいましたが、【主として武士の、しかも政治犯】が際だって多い。
家督相続、財政改革……そういった御家騒動のたびに、多くの流刑人が出ていたのです。
幕末になりますと、実質的な藩主である島津久光の勘気を被り、流刑にされた者もいます。
西郷(2度目)、村田新八がこの例にあたります。
死ぬよりはマシですが、それでも激動する情勢から取り残されるのですから、心情的には辛かったでしょうね。

村田新八/wikipediaより引用
『南島雑話』に詳しい事情が残されている
幕末の奄美大島の様子は、かなり詳細な記録が残っております。
「お由羅騒動」で流刑となった薩摩藩士・名越佐源太(なごやさげんた)は、島民との交流や生活の様子を記録した『南島雑話』を残しました。
幕末期、奄美大島の様子を今に伝える貴重な記録。
そこには食文化、生活様式、冠婚葬祭、宗教、行事、言語、動物、産業、行政のことなどが極めて綿密に記録されています。
また、名越は島民への差別感情が薄く、好奇心旺盛で、心優しい人物でした。
島民の暮らしをあたたかなまなざしで観察した彼は周囲から、
「名越様はよか御仁」
と賞賛されています。
幕末の奄美大島の様子がわかるのも、名越佐源太の好奇心と観察力のおかげです。
幕府に睨まれた月照はジャマでしかない
『西郷どん』でも島流しの様子が放送されました。
お尋ね者となった月照と共に、冬の錦江湾に身投げした西郷吉之助――そんな『西郷どん』を見て感動した方も多かったようです。

月照(右)と西郷隆盛/wikipediaより引用
◆西郷どん:吉之助と月照の“入水”に「美しすぎて泣ける」の声(→link)
ただし、そこに至るまでの経緯はわかりにくかったようで。
そのあたりを解説した記事もあるのですが、タイトルがミスリード気味ですね。
◆【「西郷どん」交友録】月照と入水自殺を共にした西郷の“真意” 開国派の直弼が斬殺する計画立て…(→link)
↑
これでは【開国派の井伊直弼が、それに反対する月照を斬殺する計画を立てた】ように見えます。
本文を読むとわかりますが主語がおかしい。
【薩摩藩上層部は、月照を薩摩から追い出すように見せかけて斬殺する計画を立てた】というのが正確な説明です。
薩摩藩が月照を殺害する動機としては、
【「安政の大獄」でご公儀に睨まれている月照を匿うのは面倒だから】
というあたりですね。
幕末の薩摩藩は、逃げ込んだ他藩の者を、領外退去処分に見せかけて殺害する場合がしばしばありました。
つまり、薩摩へ逃げたのは月照の判断ミスであり、素直に幕府に捕縛されて【安政の大獄】に連座した方が幾分マシだったかもしれません。
月照の弟・信海も獄死していて状況はかなり厳しいですが、僥倖に恵まれれば、処刑までは実行されなかった可能性もあったでしょう。
西郷の流刑は過酷な処分だったのか?
月照と心中未遂をした結果、奄美大島に流刑となった西郷。
この措置を重過ぎると見なすか、あるいは軽いと受け取るか。意見の分かれるところかと思います。
ドラマでは、厳しい措置だとされていますよね。
同時期、薩摩藩の実権を握っていた島津久光は、厳しい処断をくだしています。

島津久光/wikipediaより引用
西郷流刑とほぼ同時期【桜田門外の変】に関与したとして、有村雄助(有村俊斎のちの海江田信義の弟)は切腹の憂き目にあっています。
有村の処断に関しては、久光と信頼関係にあった大久保正助(利通)らが助命嘆願をしたものの、厳しい処分は覆らなかったのです。
薩摩藩では流罪だけでなく、全国でも有数の、切腹処分が多かった藩とされています。
そこを踏まえると、西郷のケースで流刑は妥当。
扶持米が本人にも家族にも出ていたのですから、むしろ藩の温情を感じる処分内容でありましょう。
200年以上も続いた流刑は妥当だった
2代・光久から始まり、明治8年(1875年)に終わりを告げたとされる流人制度。
なんだかんだで200年以上も続きました。
西郷隆盛の事例だけを見ると、かなり特殊に見えてしまいがちです。
ただ、薩摩藩の歴史を見ると、決して特殊な措置ではなく、政治犯としては妥当な処断であったことがおわかりいただけるかと思います。
むろん、西郷にとっては悲痛な事態です。
せっかく頑張ってきた政治活動も完全に遠ざけられてしまい、まるで世捨て人。その無念はいかばかりでしょうか。
島津久光への感情悪化も、流刑の前後からとされています。
体型も、現在イメージされるように肥大化したのは流刑がきっかけであるとか。
はたまた睾丸が腫れ上がる「バンクロフト糸状虫」に感染してしまったとか。
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彼とて人間です。
もろもろのことを考えますと、ふてくされてしまった西郷どんの気持ちもわかります。
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【参考文献】
箕輪優『近世・奄美流人の研究』(→amazon)
『国史大辞典』







