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【福地源一郎(福地桜痴)】
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天保生まれの前時代の人、不遇の晩年
大衆からそっぽを向かれ、人気に翳りが出てきた福地。
そこには見通しの甘さもありました。
明治15年(1882年)立憲帝政党を結党するも、政党間の闘争に巻き込まれ翌年には解散。
結成した歳には府会議員も落選してしまいます。
しかも明治21年(1888年)には『東京日日新聞』が経営不振に陥りました。官報が発行され、御用新聞の必要性が薄れたのです。
明治という国家が成長するにつれ、福地は存在感を失ってゆきます。
英語とフランス語を得意とする福地ですが、ドイツ語はできない。明治政府がプロイセンから学ぶ機会が増え、そうなると、ドイツ語を知らぬ外国通は用済みとなってゆくのです。
若い頃から素早く最先端の流行を掴んできた福地も、だんだんと「天保生まれの老人」、前時代の存在とみなされてゆきました。
福地の功績は、政治、商業、社会貢献は触れられることはさしてなく、文学に着目されます。
才能はあったのです。
海外の歴史を扱った小説。戯曲。演劇改良運動。
明治という新たな時代において、文学や演劇を変革していった功績は間違いない。その方面へ全集中していれば、もっと何かをできた可能性はあるでしょう。
当時から
「嗚呼、文壇ならば大元帥。花街ならば大通人」
「文章を読めば素晴らしい文士にちがいないと思うが、本人に会ってみればただの空気を読むのがうまい幇間(太鼓持ち・有力者に取り入る軽薄な者のこと)だとわかる」
といった評価もありました。
彼は、政治への参加を諦めきれません。
明治37年(1904年)の第9回衆議院議員総選挙において、東京府東京市区から無所属で立候補し、最下位当選を果たしました。
とはいえ、かつてのような影響力はありません。そしてその3年後の明治39年(1906年)、議員在職中に死を迎えます。享年66。
ここで前述の夏目漱石の言葉を思い出しましょう。
「福地桜痴の文章は、死んだ後に忘れられる」という辛辣なものですが、あらためて問いかけたい。
皆さまは、福地桜痴の著作をご存知ですか?
夏目漱石にせよ。福沢諭吉にせよ。多かれ少なかれ著作名を挙げられるでしょう。
しかし福地となると厳しい。
どうも福地には、冒頭に掲げたような人格的欠点があり、また言行不一致傾向があり、それが現在まで祟っていると思えるのです。
徳川慶喜公伝にも協力
主役である渋沢との関係を踏まえると、大河ドラマ『青天を衝け』で最も注目されるのは『徳川慶喜公伝』です。
この編纂に福地も協力しています。
ドラマでもその姿が見られるでしょう。
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しかし「最後の将軍である慶喜を称えているのであれば、幕臣であった福地も忠誠心があるのだろう」と考えるのは危ういです。
福地の著作に明治19年(1886年)『薩長論』があります。
薩長二藩は勤王を以て始まり勤王を以て終わり――。
こういう持論を展開し、案の定、幕臣はじめ大勢から反論されました。
例えば田口卯吉はこう批判しています。
「薩長の狙いは、自分たちが元老功臣になって、長く権力を保ち、明治政府の廟堂(政治の主舞台)を独占したいだけでしょう。筋違いの賞賛で、むしろ今の内閣に不敬であるし、薩長が呉越同舟で争ってばかりだと無視しておりませんか?」
そして福地をこう言い切るのです。
「老将が戦場に立って人から冷遇されている」
もうあんたは終わったんだよ。そう突きつけられているのです。
福地の言論は当時から“オワコン”扱いされていた。
そもそも彼の薩長への擁護も、無理があります。
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ゆえに薩長に対しては、当時から散々「どこが尊王なの? 権力掌握のために利用していない?」と言われていたのです。
『青天を衝け』に家康が出てくる理由
福地は性格的に、空気を読む能力に優れています。
クライアントの要求に応じるライターとして超一流であり、権力者のどこをどう擁護すれば喜ばれるか理解している。
『徳川慶喜公伝』には、そんな福地の意向が反映されています。
福地は、
「徳川幕府の成立から辿らなければ慶喜の“冤罪“は晴らせない」
と提案しました。
彼自身の病気という理由から、『徳川慶喜公伝』の編纂主任は萩野由之に変わりましたが、福地の主張が消えたとは思えません。
幕末史を辿る上で、家康まで遡るということは斬新でもあります。
そしてこれは『徳川慶喜公伝』を参照してドラマを作成している『青天を衝け』にも影響アリとみませます。
徳川家康の存在です。
ドラマでは、ナビゲーター役として北大路欣也さんが登場。家康目線で、倒幕までの過程が描かれる設定は斬新だと表されます。
なぜあのような演出になったか?
脚本家はじめ製作者の意向はもちろんあるでしょうが、慶喜の発言にもあると思えます。
『昔夢会筆記』で慶喜はこう語っています。
「家康公は日本のために幕府を開いて将軍になったが、私は日本のためにも幕府を終わりにすべきであると覚悟を定めたのである」
こうした見解は、まさに福地桜痴が提案した路線。
家康と慶喜を並列すれば冤罪が叶い、慶喜を偉大であると再評価する糸口となる。
同じ幕臣であり、慶喜を己の主君と定めた渋沢栄一も、これには満足したことでしょう。
クライアントのニーズに応える福地源一郎の才能が確かであることは、この一件でも明らか。
福地プロデュースの慶喜再評価路線が、150年を経て大河ドラマに反映され、その評価を視聴者が信じているとすれば、これはまさしく大した才だと言えるのではないでしょうか。
だからこそ注意が必要かもしれません。
せっかくの才能があってもコロコロと見解を変える――ジャーナリストにあるまじき節操の無さ。
大河ドラマでそこまで描かれることはないでしょうから。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
山田俊治『福地桜痴』(→amazon)
他