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奄美大島から戻ってスグに沖永良部島へ
西郷隆盛は文政10年(1827年)、薩摩下級藩士の家に生まれました。
11歳のとき喧嘩の仲裁で腕の神経をやられ、武芸ではなく学問に勤しむようになったのは、大河ドラマ『西郷どん』の第一回放送でも描かれましたね。
彼は、渡辺謙さんが演じる藩主・島津斉彬の目にとまり、異例の抜擢で側近として活躍。
江戸の薩摩藩邸等でも手足となって働きながら、他藩の志士に、その存在や才能を知られていくようになります。
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斉彬は、藩政改革や富国強兵策を行った名君として知られる開国派でした。
徳川家定に嫁いだ篤姫の義父にもあたり、【安政の大地震】後に西郷隆盛が輿入れの準備に奔走した――なんて話はドラマでも描かれておりましたね。
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ドラマでは篤姫と西郷のラブロマンス的なシーンもありましたが、私個人的に気になるのは、やはり西郷の睾丸に巣食った寄生虫の存在です。
隆盛は斉彬の死後、後楯を失って奄美大島に送られます。
ここではそれなりに生活をエンジョイしており、現地妻との間に長男、長女が生まれました。
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その後、ほどなくして薩摩へ呼び戻されますが、帰国後から少し経過して新藩主の父・島津久光(青木崇高さん)と仲違い。
今度は沖永良部島へ流されてしまいます。
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約1年半の間。
生活は困窮を極め、一時は餓死寸前のガリガリ君になったと伝わる西郷。
ここで同時に、バンクロフト糸状虫にも感染したと思われます。
ちなみに当時は、九州で大きく流行っていた寄生虫のため、どこで感染したのか、正確な場所までは不明です。
いずれにせよ感染の結果、隆盛の陰嚢は陰嚢水腫となり、人の頭くらいの大きさになってしまったのでした。デカすぎ……。
馬に乗れないほどに膨れ上がっていた
さて、大久保利通などのとりなしで再び薩摩に戻った隆盛は、倒幕運動の指導者となり【薩長同盟】に尽力。
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明治維新以降は参議、陸軍大将として国政に参加しました。
が、しばらくして征韓論で大久保らと対立すると、明治6年に官職を辞して薩摩に戻り、私学校で若者の教育に専念します。
こうした幕末から征韓論までの話は以下の記事に詳細がありますので、ご確認ください。
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ともかく西郷が政府を飛び出すと、各地で不平士族の反乱が起き、彼自身もまた西南戦争へ駆り立てられるワケです。
このとき西郷は、巨大化した陰嚢のため馬に乗れず、籠を使ったと伝わります。
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