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【幕末明治の日英関係】
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イギリスの干渉を受けた明治日本
そうハッピーエンドにしたいところですが、考えねばならないこともあります。
幕府から明治へ政権交代する過程で、武力討幕は必要ない、下策であるというのが当時の認識でした。
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内戦は国を疲弊させる。欧米列強の干渉を受けてしまう。そう考えられていたのです。
しかし、長州藩はなんとしても戦争をしたい。そんな長州藩の熱意に押され、薩摩藩上層部も武力討幕へ傾いていきます。
長州藩はなぜ武力討幕をしたがったのか?
アメリカの南北戦争が終結すると、武器が大量に余ります。これを日本で内戦を起こして売りつければ儲かる! そうイギリスの商人は考え、長州藩に売りつけます。
薩摩藩には商売センスに長けた五代友厚もいます。「死の商人」がちらつかせたビジネスチャンスに、彼らは飛びついたのです。
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幕府や会津藩への復讐心。新たな武器を試したい気持ち。抵抗勢力を完膚なきまで叩き潰したい思惑が一致し、戊辰戦争への道が開かれます。
開戦した側は会津藩はじめ敵の非をあげつらいましたが、背後にはほくそ笑むイギリス商人がいたのでした。
福沢諭吉の『痩せ我慢の説』論争にも注目してみましょう。
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そう福沢が罵倒したところ、勝を慕う徳富蘇峰が激怒したのです。
徳富「あそこで無血開城をしたからこそ、海外の干渉を避けられたのだ!」
福沢「そんなチャンスは長州征討はじめいくらでもあった!」
徳富は、勝海舟をかばうためこんなことも言っています。
「小栗忠順を引き合いに出して勝海舟を貶める輩もいる」
実は幕臣の小栗忠順は、徳川慶喜に対して徹底抗戦を主張していました。そしてそのための戦術を提案し、勝海舟らに対して説明もしています。
後に西軍の西郷らがその戦術の内容を知ったとき、実行されずに助かった……という旨の発言をしており、「それをしなかった勝海舟はなんなのか?」という怒りが収まらなかったのでしょう。
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私なりの意見を付け加えさせていただきますと……。
明治政府は、バッチリと外国から内政干渉をされています。
当初、徳川慶喜の首を取る気満々だった西軍がそれを諦めたのは、イギリス公使ハリー・パークスの強硬な干渉が背後にありました。
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明治政府が動き始めると、パークスは目を光らせ続けます。
なにせ、イギリスからすれば全ては計算通り!
日本を植民地化するって?
そうはいっても、幕府は清よりも素早く武装化していて骨が折れるし、金もかかる。だったら傀儡政権を作ればいい。
サムライたちは南北戦争で余った武器を喜んで買ってくれる。そして邪魔な幕府を倒してくれた。明治政府は大英帝国の忠実な生徒だ。とことん飼い慣らして、目障りなロシアの足止めをしてもらおう。
そんなイギリスの思惑を、強引な性格のパークスは何の疑問も抱かず実行できます。
その迫力に、政府の上層部は戦々恐々とするばかりだったのです。
パークスが強硬に主張したため決まったのが、明治8年(1875年)、日ロ間で締結された【樺太・千島交換条約】です。
日本は江戸時代から樺太領有を念頭に置き、会津藩士が警備に派遣されたこともありました。
徳川斉昭、川路聖謨、松浦武四郎らも、北方領土に心を砕いてきたのです。
それがどうにも、明治政府の「蝦夷地改め北海道」や「樺太」政策では粗雑さが目立ちました。
北海道の名付け親であり、最も詳しい松浦が早々に退任したあたりからも、その杜撰さが伺えます。
【樺太・千島交換条約】とは、まさしくそうした明治政府の消極的な姿勢の現れ。
後に、日露戦争の結果、南樺太が日本領に復帰しますが、その後のアジア・太平洋戦争によってソビエト連邦領とされました。
この日本とロシアの度重なる領土移転に伴い、樺太の原住民は人口が激減し、甚大な被害を受けています。
大英帝国からすれば「知らんがな」で済む話かもしれませんが、住民にとってはあまりに無惨な話でしょう。
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イギリスのロシア政策は、明治日本に多大な影響を及ぼしました。
何と言っても日露戦争がその代表でしょう。
ビゴーが描いた風刺画が有名ですよね。
イギリスが日本をロシア相手に焚き付け、それをアメリカがニヤリとしながら眺めている。 何かと理由付けされているが、結局は英米の思惑で戦ったんだろ?
そう喝破されるだけの要素は揃っていました。
日本だけでは半年分しか用意できなかった莫大な戦費を英米が負担し、薄氷を履むような際どい勝利にやっとこぎつけた。
これもすべてイギリス外交とすればしてやったりというところでした。
クリミア戦争で痛めつけたとはいえ、まだ油断できない大国ロシア。
それが外交の結果、鬱陶しいロシアのヒグマはもう息も絶え絶えになったのです。
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しかしここから先、イギリスとアメリカの思惑は大いに外れます。
世界は日本はアジア・太平洋戦争へと突入し、日英関係は敵対するという最悪の結果を迎えたのでした。
ゆえにイギリスでは、日本への政治介入はいかがなものだったのか?という反省があります。
教師パークスの生徒たち
慶応元年(1865年)にイギリス駐日全権大使として来日したパークスは、明治16年(1883年)に駐清全権大使となるまで、日本を震え上がらせ続けました。
怒鳴る。怒る。罵倒する。威嚇しながら内政干渉をする。それがパークスでした。
政府はNOとは言えません。木戸孝允や大隈重信らですら、ろくに反論すらできないような有様でした。
伊藤博文はこう振り返っています。
「パークスの我らに対する態度は、教師が生徒に対してするようなものであった。文明の政治とはこういうものだと言いたげで、指導してやるという態度であった」
イギリス側はそんな自国の態度を反省しています。
では日本はどうか?
イギリスのみならず幕末明治の来日外国人手記は、長い間、読めない状態が続きました。
明治新政府から続く政権にとって、不都合な史実を読まれては困ったのでしょう。
そうした禁が解けたはずの時代になっても、日本のベストセラーは司馬遼太郎の明治作品『坂の上の雲』でした。
『世に棲む日々』では、四国艦隊砲撃のあと、交渉の席にあらわれた高杉晋作が堂々とイギリス人に対して振る舞い、「魔王のような男!」と感嘆させたと描かれています。
しかし史実では、魔王どころか借りてきた猫のようにおとなしかった。
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『坂の上の雲』は、あとがきにおいてそのテーマがこう説明されます。
のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それをのみ見つめて坂をのぼってゆくであろう――。
そんな詩的な描写に「いや、それ、イギリス人が背中を押している坂道ですよね」と突っ込んだら、嫌な顔をされるとは思います。
小説と史実は別物です。
とはいえ、明治という国家には、背後で怒鳴りながら声援を送り、自分たちのために利用していたイギリスがいることを頭の隅に入れておいてもよいのではないでしょうか。
たとえ、それが不愉快であったとしても……。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
宮永孝『日本とイギリス 日英交流の400年』(→amazon)
犬塚孝明『密航留学生たちの明治維新』(→amazon)
片山杜秀『尊皇攘夷―水戸学の四百年―』(→amazon)
『別冊歴史読本 世界を見た幕末維新の英雄たち』(→amazon)
他