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【近衛忠煕】
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「チーム篤姫」は近衛家ゆかりの者
いよいよ将軍家へ輿入れという中、篤姫の周りには強力な老女が2人もつきます。
一人目の名は、幾島。
彼女は郁姫付きの侍女として、薩摩から京都近衛家に仕えていました。
薩摩という同郷出身で、長年公家にも仕えた幾島は、篤姫にとって心強い助っ人でもありました。
女丈夫と呼ばれた幾島は篤姫の世話係~西郷と協力して政治工作を担っていたが
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そしてもう一人、欠かせないのが「村岡局」です。
彼女は長年近衛家に仕えてきたキャリアウーマンでベテラン。「清少納言の再来」とされるほど頭が切れます。
郁姫が既に亡くなっていたため、篤姫の養母役とされました。
もっとも、年齢差は祖母と孫というほうが近いですね。
このように、篤姫周辺を固めるスタッフは、近衛家ゆかりの者たちであるわけです。
幕末の勤王女傑こと村岡局(津崎矩子)篤姫や西郷に信頼された老女をご存知?
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浮沈の激しい忠煕の人生
さて、忠煕本人の人生をみてみましょう。
公家は位階(ランク)が重要となりますので、年表に合わせて見ていきたいと思います。
文化5年(1808年) 誕生
文化13年(1816年) 従五位上、左権少将
文化14年(1817年) 従三位
文政4年(1821年) 正三位
文政6年(1823年) 従二位
文政7年(1824年) 正二位、内大臣
天保5年(1834年) 従一位
弘化4年(1847年) 右大臣
安政4年(1857年) 左大臣
安政5年(1858年) 外交問題が揉めて、九条尚忠に代わって内覧となったものの「安政の大獄」で失脚。内覧、左大臣を辞して落飾(出家)謹慎し、翠山と号する
文久2年(1862年) 日参朝を許され、復飾(還俗)、関白内覧となる
文久3年(1863年) 尊王攘夷派に排斥され、関白を辞する
慶応3年(1867年) 再び参朝停止
明治元年(1868年) 参朝を許される
明治2年(1869年) 麝香間祗候となる
明治6年(1873年) 退隠
明治11年(1878年) 従一位に復叙
明治18年(1885年) 勲一等に叙し、旭日大綬章を賜わる
明治29年(1896年) 四代の天皇に仕えて勲功があり、90才という長寿に達したため、特旨を以て旭日桐花大綬章を授けられる
明治31年(1898年) 没。享年91
こうしてみると、なかなか浮き沈みの激しい人生です。
特に安政4年から明治元年までは、かなりめまぐるしく変わっております。
ただ、まぁ……これは彼の世渡り上手な一面を感じさせる部分でありまして。
野心がなく、恨みを買いにくい性格であったのでしょう。
公卿というと、おとなしく歌でも詠んでいるイメージがあるかと思いますが、幕末ともなるとそうでもありません。挙兵に参加したり、戦場へ向かったりする者もいました。
優雅に歌を詠んでいる場合じゃない、今は国のために働くべきだと考える、そんな熱い公卿も多かったわけです。
そんな活動の最中、失脚するのはよくあることです。運が悪いと、暗殺されてしまうことすらありえました。
それを生き抜いた忠煕。
彼が歴史上で最も影響を与えたのが【戊午の密勅(ぼごのみっちょく)】です。
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