近衛忠煕

将軍家に嫁ぐ前の篤姫(左)を養女にしたことでも知られる近衛忠煕/wikipediaより引用

幕末・維新

篤姫を養女にした近衛忠煕(ただひろ)幕末のエリート貴族91年の生涯とは?

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
近衛忠煕
をクリックお願いします。

 

「チーム篤姫」は近衛家ゆかりの者

いよいよ将軍家へ輿入れという中、篤姫の周りには強力な老女が2人もつきます。

一人目の名は、幾島

彼女は郁姫付きの侍女として、薩摩から京都近衛家に仕えていました。

薩摩という同郷出身で、長年公家にも仕えた幾島は、篤姫にとって心強い助っ人でもありました。

幾島
女丈夫と呼ばれた幾島は篤姫の世話係~西郷と協力して政治工作を担っていたが

続きを見る

そしてもう一人、欠かせないのが「村岡局」です。

彼女は長年近衛家に仕えてきたキャリアウーマンでベテラン。「清少納言の再来」とされるほど頭が切れます。

郁姫が既に亡くなっていたため、篤姫の養母役とされました。

もっとも、年齢差は祖母と孫というほうが近いですね。

このように、篤姫周辺を固めるスタッフは、近衛家ゆかりの者たちであるわけです。

村岡局(津崎矩子)
幕末の勤王女傑こと村岡局(津崎矩子)篤姫や西郷に信頼された老女をご存知?

続きを見る

 

浮沈の激しい忠煕の人生

さて、忠煕本人の人生をみてみましょう。

公家は位階(ランク)が重要となりますので、年表に合わせて見ていきたいと思います。

文化5年(1808年) 誕生

文化13年(1816年) 従五位上、左権少将

文化14年(1817年) 従三位

文政4年(1821年) 正三位

文政6年(1823年) 従二位

文政7年(1824年) 正二位、内大臣

天保5年(1834年) 従一位

弘化4年(1847年) 右大臣

安政4年(1857年) 左大臣

安政5年(1858年) 外交問題が揉めて、九条尚忠に代わって内覧となったものの「安政の大獄」で失脚。内覧、左大臣を辞して落飾(出家)謹慎し、翠山と号する

文久2年(1862年) 日参朝を許され、復飾(還俗)、関白内覧となる

文久3年(1863年) 尊王攘夷派に排斥され、関白を辞する

慶応3年(1867年) 再び参朝停止

明治元年(1868年) 参朝を許される

明治2年(1869年) 麝香間祗候となる

明治6年(1873年) 退隠

明治11年(1878年) 従一位に復叙

明治18年(1885年) 勲一等に叙し、旭日大綬章を賜わる

明治29年(1896年) 四代の天皇に仕えて勲功があり、90才という長寿に達したため、特旨を以て旭日桐花大綬章を授けられる

明治31年(1898年) 没。享年91

こうしてみると、なかなか浮き沈みの激しい人生です。

特に安政4年から明治元年までは、かなりめまぐるしく変わっております。

ただ、まぁ……これは彼の世渡り上手な一面を感じさせる部分でありまして。

野心がなく、恨みを買いにくい性格であったのでしょう。

公卿というと、おとなしく歌でも詠んでいるイメージがあるかと思いますが、幕末ともなるとそうでもありません。挙兵に参加したり、戦場へ向かったりする者もいました。

優雅に歌を詠んでいる場合じゃない、今は国のために働くべきだと考える、そんな熱い公卿も多かったわけです。

そんな活動の最中、失脚するのはよくあることです。運が悪いと、暗殺されてしまうことすらありえました。

それを生き抜いた忠煕。

彼が歴史上で最も影響を与えたのが【戊午の密勅(ぼごのみっちょく)】です。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-幕末・維新
-

×