寺田屋事件(寺田屋騒動)

幕末・維新

薩摩の惨劇・寺田屋事件(寺田屋騒動)はなぜ起きた? その結果どうなった?

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もう一人の犠牲者

切腹に至った二人。

・田中謙助
・森山新五左衛門

そのうち森山新五左衛門に注目してみたいと思います。

事件当時、新五左衛門は側に刀がなく、脇差で抵抗しただけでした。

もしその場で何もしなければ、卑怯者と呼ばれたかもしれません。新五左衛門は、抵抗する以外なかったのです。

しかし、そんな弁明が通じるはずもなく――新五左衛門は、切腹を命じられました。

新五左衛門は大柄な美丈夫でした。

全身に傷を負い、衰弱しておりながらも、鹿児島の方を向きました。

そしてそのまま、立派な態度で腹を切ったのです。

そんな彼の姿を見て、検分役も涙したと伝わります。享年20。

「商人出の武士じゃっでこそ、本当の武士よっか武士らしゆあらねばならぬ」

新五左衛門の脳裏には、そんな父・森山新蔵の言葉があったことでしょう。

森山家は、藩に対して多額の貸し付けを行い、その見返りに50石の武士として取り立てられた家柄です。

商人あがりと言われないためにも、武士より武士らしくあれと、新五左衛門は父から厳しく言われて育ちました。

そしてその言葉通り、武士として戦い、そして武士として恥ずかしくない死を遂げたのです。

息子の処分を、父・新蔵は鹿児島・山川港に係留した船内で聞きました。新蔵は罪人の身内として、上陸を許されなかったのです。

我が子の立派な最期を聞き、新蔵は涙すら流さず、「我が子ながら見事じゃった」と喜んでいました。

処分を待つため傍らにいた西郷隆盛村田新八は、痛ましい気持ちで新蔵を見守るほかありません。

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それから数日後――。

西郷と村田が船を離れていたわずかな間に、新蔵は腹を切っていました。遺書はなく、辞世のみがそこに残されていました。

長らへて 何にかはせん 深草の 露と消えにし 人を思ふに

享年40。

商人あがりと言われた森山父子。

その最期は、武士よりも武士らしいものでした。

我が子のあとを追った新蔵は、寺田屋事件もう一人の犠牲者でありましょう。

 

事件の結果どうなった?

「寺田屋事件」において、自藩の者であっても、断固とした処断を下した島津久光

京都において、その果断は高く評価され、声望を高めました。

その陰で、犠牲者たちは苛烈な扱いを受けました。

薩摩藩士はまだましで、他藩や浪人の殺害は凄惨極まりないと言えます。

中でも公家に仕えていた田中河内介の日向送り(殺害)は、西郷にとってショックでした。

「もう"勤王"の二文字を唱ゆっこたあでけん」

そう嘆いたそうです。

幕末という激動の時代、凄惨な事件の一ページ。

それは薩摩藩にとって、思い出すのも忌まわしい、暗く哀しい事件でした。

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事件の経過そのもについての詳細等は、

明治天皇の教育係だった田中河内介

・鎮撫使であった「大山格之助(大山綱良)」

・事件の首謀者「有馬新七

以上の伝記でご覧ください。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
国史大辞典
桐野作人『さつま人国誌 幕末・明治編』(→amazon
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon

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