上野戦争(彰義隊)

上野戦争(画:歌川芳盛 )/wikipediaより引用

幕末・維新

彰義隊が散った上野戦争の恐ろしさ~大村の作戦とアームストロング砲で焼け野原

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こちらが焼け野原となった写真です。

上野戦争の跡地/wikipediaより引用

辺り一帯まさに焼け野原で、藤堂高虎のお墓を擁していた寒松院というお寺も焼失してしまいました。

まぁ、この焼かれ方なら仕方ないすね。

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犠牲者数は……?

当然ながら死傷者も膨大な数かと思いきや、新政府側が100名程度、彰義隊は260名超と案外少なめでした。

戦闘が一日で終わったこと。

新政府vs旧幕府というより、それぞれごく一部同士の参加者で戦ったからでしょうか。

彰義隊の残党は根岸方面に逃げたものの、その後この名前で隊を組むことはなかったようです。

個人的に会津戦争や函館戦争に参加した人がいたといいますから、心の底から新政府が気に食わなかった人の集まりだったのでしょう。

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墓が上野公園内にある

いずれにせよ明治政府から見れば「往生際の悪い奴らの集まり」であり、死後の扱いは最低でした。

徳川家の菩提寺・増上寺や、縁のある人物が彰義隊死者の引き取りと供養を申し出ても認めてもらえず、しばらくの間野ざらしにされたとも伝わります。

見るに見かねて、三河屋という商人がお金を出して荼毘にしたとのこと。

この人は増上寺に出入りしていたものの、立場的にはほぼ中立だったので許可が出たのでしょう。

それでも表立って供養することはできず、改めて政府から供養の許可が出たのは明治七年(1874年)のことでした。

現在、上野公園の中にある彰義隊のお墓は、こうした紆余曲折を経て建てられたものなんですね。

上野彰義隊のお墓

上野というと美術館や博物館、動物園が思い浮かぶ人が多いと思いますが、たまにはこうした史跡にも立ち寄ってみるのも良いかもしれません。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon
上野戦争/wikipedia
彰義隊/wikipedia

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