有名なのは首相も出た細川家や、仙台などで歴史系イベントにも積極的な伊達家でしょうか。
となると、さらに大身だったあの家も当然ながら現在に続いています。
徳川宗家(本家)の十六代当主・徳川家達(いえさと)です。
大政奉還後の慶応四年(1868年)5月24日に「駿河藩主」になっており、もう少し幕府が続いていれば、十六代将軍になっていたはずの人ですね。
世間からもそのように見られていたらしく「十六代様」と呼ばれることもあったとか。
しかし、彼が生まれたのは文久三年(1863年)7月11日という幕末も押し迫った頃。
十四代将軍の徳川家茂が約230年ぶりに上洛したり、薩英戦争が起きたり、いよいよ江戸幕府の終わりが迫っていた頃でした。
そのため、彼は新しい時代の徳川家を一身に担っていくことになるのです。
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遠征中の14代将軍・家茂が二十歳で急死
徳川家達が生まれたのは、佐幕派の人々がまだ健在だった文久3年(1863年)7月11日のこと。
当初は家達も、次期将軍候補として育てられていました。
上記の通り家達が生まれた時点の将軍は家茂なのですが、子供がいなかったので後継者問題が起きていたのです。
家達は、御三卿の一つ・田安家の生まれです。
父は徳川慶頼(よしより)。
血筋をたどれば家茂とも、十三代将軍・徳川家定とも従弟にあたり、血筋の近さから最有力候補とされていました。
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家茂も、もちろんそれを知っていましたので、「私に何かあったときは、家達に将軍を継がせてください」と言い残しています。
しかし、いくらなんでもわずか20歳、しかも長州征伐のため滞在していた大坂城で、家茂が亡くなるとは、誰も予想していませんでした。
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徳川慶喜に代わり、宗家を引き継ぐ
このとき家達はわずか4歳。
幼い将軍としては七代・徳川家継の例がありましたが、その在任期間(1713-1716年)とは、まるで状況が異なります。
外国の脅威が迫る中、物心つくかつかないかの幼児をトップに据えていいものか?
幕閣も「さすがにないでしょ……」(超訳)という姿勢でした。
大奥では「家茂様の遺言通りに――」と考える人が多かったものの、家茂の正室である静寛院宮(和宮)が「いや、やはりもう少し年長の方に」と提案。
水戸藩などの有力藩も賛成したため、十五代将軍は一橋家に入っていた一橋慶喜(徳川慶喜)に決まりました。
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結果、家達は江戸城に入ることはなく、大政奉還や戊辰戦争といった時代の激流に巻き込まれずに済んでいます。
そして慶喜に代わり、明治政府から「徳川宗家を継ぎなさい」と命じられたのです。
まだ五歳でした。
既に政治の中枢ではない家ですから、名を残せば問題ないと思われたのでしょう。完全に取り潰してしまう方が、色々と面倒です。
その年の内に明治天皇に拝謁したり、官位も貰ってもいるので、家達は名実共に徳川家の主となるのでした。
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