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【天然理心流】
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全国で次々に起こる蜂起と事件
「悪党」と化し、力で政治を変えること――。
そんな手段があることに、江戸時代を生きる人々は気づいてしまったのです。
「天保騒動」の前後には、暴力による解決を目指した事件が他にも起こっています。
文政4年(1821年)には、南部藩士・下斗米秀之進らが相馬大作事件を起こしました。
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これは参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を殺害しようとしたものです。
さらには天保8年(1837年)、小学校の教科書でも習う、大塩平八郎の乱が起きております。
大阪町奉行所の元与力・大塩平八郎とその門人が蜂起したものですね。
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更には天保11年(1840年)の「天保義民事件」。幕府の三方領地替に反対した庄内藩農民が一揆を起こしました。
大きな特徴としては、いずれの乱も、超法規的な解決を目指した事件であり、それまでは考えられないものだったのです。
幕府というシステムに穴があき、そこから何かが漏れ出している――。
当時の人々は徐々に実感するようになりました。
関東のお兄さんは、なぜ殺人剣を使えた?
幕末に活躍した人々の出身地といえば、だいたいが藩ごとに偏っています。
薩摩、長州、土佐、佐賀、会津、京都……幕末の政局において、活動していた藩出身者というわけです。
そんな中で例外なのが関東です。
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そして「赤報隊」隊長として散った相楽総三。
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新選組の幹部たちは、天然理心流を習得していました。
この天然理心流というのが実に恐ろしい殺人剣。
幕末における実践剣で、西の横綱が薩摩の示現流および薬丸自顕流ならば、東の横綱が天然理心流です。
スポーツとして洗練された他の流派とは異なり、両派は確実に人を殺傷するものでした。
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しかし、よく考えてみると不思議ではありませんか。
彼らは、農民出身のお兄ちゃんたちです。そんな彼らが、なぜ現在で言うならば特殊部隊戦闘員レベルの殺人剣をマスターして、やたら強かったのでしょうか。
多摩市のコンビニ前にうろつくお兄ちゃんたちが、SWATレベルの戦闘力を持っていたらおかしいですよね。
それには理由があったのです。
リアル『北斗の拳』状態だった関東多摩地方
天然理心流は、寛政年間(1789年〜1801年)頃に創設した流派で、日野・八王子地域の千人同心を中心に広まりました。
八王子千人同心の任務は治安維持です。
凶悪な犯人を捕縛する人たちの間に広まったのですから、実践的な捕縛・殺人術であるのはごく自然なことといえます。
ところが、天保年間になると「悪党」が関東地方までやって来て、治安が急激に悪化。
リアル『北斗の拳』状態に陥っていくのです。
豪農たちは、もはや公権力に頼っていては自衛できないと考え、まだ10代の跡取りたちを天然理心流に入門させます。
そんな中に、地域のリーダーであった佐藤彦五郎がいました。
嘉永2年(1849年)。
「染っ火事」と呼ばれた火災の最中に、祖母を賊に斬殺された佐藤は、強さが必要だと痛感。
天然理心流道場の門を叩くだけでなく、自宅を改造してまで、天然理心流の道場を作るのです。
この道場で稽古をしていたのが、近藤勇、佐藤の義弟・土方歳三、沖田総司らでした。
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幕末関東というリアル『北斗の拳』を生き延びるため、殺人剣で鍛えまくってきた新選組の幹部たち。平和な時代の武士など、彼らからみたらプロ野球と中学野球ぐらいの違いがあったかもしれません。
幕末期になると、多摩の農民は剣術だけではなく、ゲベール銃による「農兵銃隊」まで組織するほどです。
関東はどんだけ地獄だったんだ……。
しかし、本当の地獄はまだまだこれからでした。
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