幕末・維新

レオン・ロッシュが築いた幕末の日仏関係は情熱的~しかし見通し甘く英国に敗北

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レオン・ロッシュ
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倒幕と日仏蜜月関係の終わり

慶応3年(1867年)末――事態はおそるべき速さで進んでゆきます。

土佐藩は後藤象二郎らが先頭に立ち、大政奉還を進めてゆきます。

武力を用いることなく政治体制を改革する案でした。

そう簡単に慶喜が権力を手放すものか?

そう疑念が抱かれていたものの、慶喜はこれを受け入れます。

慶喜からすれば、フランスの提案に従い、近代化を進めてきた自負があります。己の力を抜きにして近代化ができてたまるか。そう思っていてもおかしくはありませんでした。

しかし、それも錦旗のひるがえる【鳥羽・伏見の戦い】で敗北するまでのこと。

鳥羽・伏見の戦い
鳥羽・伏見の戦いで注目すべき慶喜の大失態~幕府の敗北は当たり前?

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江戸へ逃げ帰った慶喜の元へ、ロッシュは駆けつけました。

どうすれば立て直しが図れるか?

そう問われ、ロッシュは提案します。

・全国の諸大名に大政奉還後の新体制を告知し、薩長の求めには応じない

・東海道を遮断し、江戸湾の入り口に艦隊と砲台を配置し敵を防ぐ

・現存の歩兵のみならず、フランス人士官が指揮をする別種の舞台を組織する

・予算がなければ軍備が整えられない。財政改革が必要だ。そのためにはまず信頼関係を……フランスに借金を返済しましょう!

抗戦を避けた慶喜の表向きの言い分としては「天子様に弓引くなぞできぬ」というものがあります。

しかし素直に信じていいかどうかはわかりません。

それよりも、恩師であるロッシュに失望した気持ちがあったとしてもおかしくはありません。

露骨にフランスが軍隊に干渉する。そして借金は取り立てる。

甘い夢とロマンは消え去り、国益を重視する恩師ロッシュの裏の顔が見えた……そのことに失望してもおかしくはありません。

このあと慶喜の助命嘆願において重要な役割を果たし、勝海舟に対し「交渉が失敗したら軍艦で我が国まで送り届けましょう」と請け負ったのは、皮肉にもパークスでした。

ロッシュの宿敵がロッシュの愛弟子を助けるという、あまりに皮肉な展開。

どうにも皮肉な結末でもって、幕府は崩壊します。

日仏関係も様変わりします。

個人的な騎士道を重んじ、幕府軍と共闘したブリュネは厄介者扱いされ、敵対していた明治政府側と交渉することとなるのでした。

ジュール・ブリュネ
映画ラストサムライのモデル「ジュール・ブリュネ」は幕末の仏軍人だった

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元号が明治となった1868年、ロッシュは残務処理を終え、明治天皇に謁見を果たした後、フランスへ帰国を果たします。

その後、外交官を退職。

1900年6月23日、ボルドーでひっそりと息を引き取りました。享年90。

 


幕末の日仏関係に何が欠けていたのか?

幕末のイギリス人外交官には「ドライな印象」を受けます。

親日!

日本大好き!

といった甘い顔はまったくせず、自国の権益を第一とし、値踏しながら日本を見ていることがわかる。

一方でフランスはどうか?

ロッシュはかなり情熱的に日本と慶喜への愛を書き残しています。

カションと栗本鋤雲の交流も、互いへの敬愛が感じられます。

また、イギリスへの敵愾心も、彼らの判断力を鈍らせていました。

外交というよりも、あたかも友情や恋愛のような、生々しい人間関係がそこにはあります。

しかし、皮肉にもそれが悪かったのかもしれません。

フランスは幕末外交においては後発であり、問題に取り組むにせよ、そもそもの時間が短かったといえます。

これはロッシュも意識しており、時間をかけて変えてゆくべきであると示していました……のみならず、冷静さの欠如が目立つのです。

ロッシュは本国から「個人的な思い入れで幕府を支持している」と懸念を抱かれています。

カションは幕府の使節団と些細なことで揉めた腹いせに、幕府に不利な新聞投稿をしてしまいます。

いずれにせよ、個人の感情暴走がそこにはありました。

ロッシュのそうした熱意は、本来ならばプラスの要素として働くこともありました。アルジェリア時代に現地有力者の信頼を勝ち得た背景には、そうした情熱と人間性があったはずです。

幕府がフランスと接近したのも、イギリスほど狡猾ではないと感じたことが背景としてあります。

ロッシュにせよ、カションにせよ、話術に長けていて、熱心に応じてくれる誠意を感じたからこそ信じられたのです。

しかし……。

それが行き過ぎて失敗したのなら、なんとも皮肉なことです。

かくして情熱的なロッシュと慶喜という師弟関係は崩壊。

日本という国は新たな師弟関係のもとで新たな国家建設を進めてゆきます。

イギリスです。

明治政府の上層部が恐れたパークスは、遠慮呵責なく明治政府の外交に干渉してきました。

幕末期は内政不干渉をうたっていたイギリスも、いざ明治時代を迎えるや、途端に本性を見せてきたのです。

彼らが背後で目を光らせる中、明治日本が歩み始めたことを私達も記憶しておいた方が良さそうですね。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
鳴岩宗三 『レオン・ロッシュの選択 幕末日本とフランス外交』(→amazon
富田仁『メルメ・カション―幕末フランス怪僧伝』(→amazon
小野寺龍太『栗本鋤雲:大節を堅持した亡国の遺臣』(→amazon
野口武彦『慶喜のカリスマ』(→amazon
安藤優一郎『幕末維新 消された歴史』(→amazon

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