薩英戦争

激突するイギリス艦隊と薩摩砲台/wikipediaより引用

幕末・維新

薩英戦争で勝ったのは薩摩かイギリスか? 戦後は利益重視で互いに結びついたが

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実は薩摩の方が人的被害が少ない

薩摩が薩英戦争で受けた被害は以下の通り。

・砲台の死傷者10名

・市街地での死傷者9名

人的被害はわずかな人数にとどまっています。

これに対しイギリス側は戦艦損傷3隻で死者20名に負傷53名(諸説あり)。

要するに「割の合わない損害」とも言えます。

イギリス側も、捕虜にした五代才助から、上陸戦では勇猛果敢な薩摩隼人に苦戦は必至と聞かされておりました。

ただ、こうしたこと以上に、彼らも石炭や砲弾に不足があり、戦闘打ち切りとしたようです。

お互いにこれ以上戦っても無益であると悟った段階で、賠償金を取って話を終えたほうがよいわけです。

さらにここで一歩踏み込んで、イギリス側の考えを想像してみましょう。

「どうも日本という国は、武力で植民地化するにはそこそこ骨が折れそうだ。ならばここは金の卵を産む鶏として、生かさず殺さずにしたほうがよいかもしれん」

それぐらい考えてもよさそうではありませんか?

戦後のイギリスの行動を見ますと、そうした考えが透けてきます。

双方は、交渉のテーブルにつきました。

薩英戦争後の交渉に挑む薩摩とイギリスの首脳部たち/wikipediaより引用

薩摩藩が支払った賠償金は2万5千ポンド。

当時の通貨に換算して7万両です。

しかしそれ以上の利益を、互いに得ることができました。

結果、薩摩側も見方を変えていくのです。

イギリス人というのは話が通じるし、これは味方につけたらよいのではないか?と考えたわけですね。

一方、イギリス側も、抜群の政治センスを持つ島津久光と薩摩藩は、大きな味方としてとらえます。

その後、薩摩はイギリスを会食に招いて見事な豚肉料理をふるまい、双方、舌鼓を打ちながら親睦を深め、そして「この接近は成功だった」と確信することとなるのです。

※ただし政権運営の経験に乏しい明治政府は、その後、外交に長けたイギリスから子分のような扱いとされます(詳細は以下の記事へ)

幕末明治の日英関係
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続きを見る

 


薩摩と長州は、険悪の頂点へ

さて、ここで、前述の宿題へ戻りたいと思います。

【よくある間違った見方】として挙げた

「薩摩藩は、この戦争の敗北によって攘夷の非を悟った」

という話ですね。

海と琉球に直面し、「宝島事件」はじめ、海外からの圧力に向き合ってきた薩摩藩は、

島津斉興の時点で攘夷は非現実的である】

と悟っていました。

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斉興、斉彬、そして久光と、薩摩藩の名君たちはずっと現実的な対処を模索していたのです。

理想ばかりが先行――後先考えずに孝明天皇へのアピールばかり重視して、攘夷を繰り返した長州藩とは真逆の対応なんですね。

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「攘夷の非」は、薩摩藩にとってはとっくにわかりきっていたこと。

ただ、今回の戦争は様々な要因によって不可避だったのです。

薩長同盟】という用語のせいか。

両藩は行動パターンが似ていると思われがちですが、真逆に近い考え方や性質を表にマトメてみました。

薩摩長州
気質陽性
積極的で体育会系
陰性
理想先走りの傾向あり
主な勢力精忠組
寺田屋事件で実質壊滅
松下村塾
禁門の変までに犠牲者多数
伝統的な特徴将軍家との縁談朝廷に最も近い藩
攘夷への対応島津斉興の時点で消極的(薩英戦争はやむを得ず)積極的(朝廷の勅を奉じて行う・奉勅攘夷)
将軍継嗣問題藩をあげて「一橋派」吉田松陰は「一橋派」支持だが藩としては不参加
公武合体運動
(朝廷と幕府)
肯定的否定的
藩士の制御島津久光が常にコントロール(粛清も辞さず)毛利敬親は消極的で不干渉
主な攘夷戦争薩英戦争(引き分け)下関戦争(敗北)
孝明天皇の信任ありなし(偽勅を出して信頼失う)
佐幕派への感情同情的で寛大厳しく否定的

まるで違うと思いませんか?

特に【気質の差】とはいうのは大きく、薩長同盟が成立してその後の明治時代となってからも、両者は激しく対立することがありました。

「薩英戦争」に話を戻しますと、悲しい長州の勘違いが発生します。

自分たちだけが外国勢相手に攘夷戦争をしていると思ったのに、薩摩藩もイギリスと戦争をしたというのですから、長州藩は嬉しかったんですね。無邪気だった。

「わしらは一人じゃない! 薩摩も仲間じゃ!」

そう思っていたら、薩摩が裏でイギリスと手を組み、密貿易でガッツリ儲けていたのですから、失望感は半端ないわけです。

しかもここで【八月十八日の政変】が重なり、京都を追い出された長州たち。

薩摩への怒りはマックス!

仕返しとばかりに薩摩船を沈め、島津久光の殺害予告までバラ撒くという行動に出ています。

島津久光
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血の気の多い薩摩藩も、リベンジはできません。

密貿易を自ら公にするわけにもいかないのです。

西郷隆盛が政治復帰を果たす前。

薩長の間柄は、険悪さMAXだった――それをアタマに入れておくと、後の薩長同盟の成立がいかに難しかったか、という点をご理解しやすいことでしょう。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
一坂太郎『明治維新とは何だったのか: 薩長抗争史から「史実」を読み直す』(→amazon
半藤一利『幕末史 (新潮文庫)』(→amazon
家近良樹『西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon

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