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【美賀君と慶喜周辺の女性たち】
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一人目の許嫁・千代君
そんな慶喜は、12歳で許嫁が選ばれました。
美賀君ではありません。
一条忠香の娘・千代君です。
忠香の娘・一条秀子は、継室として将軍・徳川家定に嫁いでいました。
よって慶喜と家定は、この縁談がまとまれば同じ姉妹を妻にする予定だったのです。
しかし、ここで不幸が起きます。
慶喜に嫁ぐ予定だった千代君が、天然痘に罹患して痘痕(あばた)が残ってしまい、婚約が解消されてしまうのでした。
そこで菊亭家から選ばれたのが美賀君です(一条家に養女として入り慶喜に嫁ぐ)。
千代君については、おどろおどろしい逸話が残されております。
そもそも痘痕は残らなかったのに、噂を広めた者の画策で婚約解消され、絶望のあまり病死したとか。
父と慶喜を恨み、祟りを為すと自刃したとかいうものです。
慶喜が将軍でなくなったのも彼女の祟り……というのは単なる噂話。
その後、彼女は輝子と名乗って越前国・毫摂寺に嫁ぎ、明治13年(1880年)に亡くなっています。
正室・美賀君のゴシップ
徳川将軍の正室は公家から迎えるケースが多く、慶喜と美賀君も、そうした慣習によって成立した夫婦でした。
しかし結婚当初から心中は複雑だったことでしょう。
彼女は慶喜にとって2人目の許嫁。
年齢も2歳上。
そのせいか慶喜とあまりに親しい徳信院の存在に悔しがるのですが、これは何も美賀君だけが悪いとも言い切れないところでしょう。
大河ドラマ『青天を衝け』でもありましたように、慶喜は徳信院と仲睦まじく謡曲を歌い、その声が聞こえてきたりするのです。
慶喜は正室が待つ場には戻らず、表向きはずっと職場に泊まり続けるような生活を送りました。
ただでさえ政局が大変な時期。
しかも徳川家定に子ができないため、次の将軍を誰にするかで大名たちが揉めていた時期にこの有様です。
そんな夫に辛抱しきれなくなった美賀君は、ついには狂言自殺まで演じるようになり、そのゴシップは書状にも残されるほどでした。
「あの御正室、この大変な時に徳信院に怒るわ、騒動まで起こしているそうですよ。何やってんだか」
「まあ仕方ないんじゃないですか。だって徳信院の方がずっと御正室よりも器量よしですからね。いろいろ言いにくい理由もあるんじゃないですか」
こんなことを一橋派の大名同士が書状で噂をしていたのです。
確かに美賀君は嫉妬深いところがあったのでしょう。
ただ、皮肉なことに彼女のこうした噂が残されているのは、このあたりまで。
将軍継嗣問題に敗れて謹慎生活とされた慶喜は注目されなくなり、その正室・美賀君の不品行も噂のタネとされなくなるのです。
『青天を衝く』においては、二人の関係がどこまで描かれるか不明です(あくまで主役は渋沢栄一です)ので、少し補足しておきますと……。
将軍就任後の慶喜は、京や大阪へ向かいました。
そんな将軍時代に誕生した子は、正室・美賀との間にできた一女のみ。
安政5年(1855年)に生まれたこの女児は残念ながら夭折を遂げてしまいます。
明治の世となった頃には、当時「お褥下がり」(寝室のお役目御免)とされた30歳を超え、慶喜と側室の間に大勢の子が生まれる様子を、正室としての威厳を保ちつつ見守る人生が待っていました。
なかなか苦しい立場ですよね。
それでも慶喜は、彼女が乳がんを患うと最先端の治療を受けさせていたようです。
普通の夫婦らしい愛はなくとも、敬意はあったのでしょう。
美賀のお付きであったおすがは主人に忠実に仕え、側室たちとの交渉にあたり、正室の威厳を保つことに腐心していたとされます。
開陽丸にのりこんだお芳
江戸の将軍といえば、大奥の印象が強い。
さぞやモテモテハーレムライフを送ったのだろうと想像してしまいます。
例えば徳川家斉は尋常ならざる子沢山で、婚礼を諸大名に押し付けた結果、政治が混乱したほどでした。
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慶喜は、正室1人、側室3人とされています。
江戸にいる期間も短く、政治に神経をすり減らしていたことを思えば、この少なさは当然の帰結でしょう。
そもそも慶喜は、大奥の人員削減案を打ち出し、嫌われていたという経緯があります。
では女性関係が全く無いかと言ったらそうでもなく、将軍として京・大阪へ向かう最中に、お手つきの女性が数名いたとされます。
その一人が、一橋家に女中奉公していたお芳という女性でした。
2018年大河ドラマ『西郷どん』では薩摩の遊女出身とされましたが、あれはフィクションでの設定であり、かつ相当な無理があります。
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慶喜は辰五郎に「ジジイ」と呼びかけるほど、気に入っていました。
そんな粋な江戸っ子の娘、小股の切れ上がった美女のお芳を、慶喜はことのほか可愛がったと思われます。
というのも明治以降に暇をいただいた慶喜周辺の女性の中でも、お芳には逸話が残されているのです。
その一つが鳥羽・伏見の戦いでの話でしょう。
戦いに敗れた慶喜は、松平容保らとともに軍艦・開陽丸で江戸へ引き上げます。
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その際、小舟が軍艦に近づいてきました。慶喜の近習が「いくらお手つきとはいえ、軍艦に乗り込んでくるとは何事か!」と刀を抜き追い払おうとしたのですが、結果的に乗船できました。
ドタバタとした敗走の最中、場違いな美女がいることに、周りは呆れるやら、見惚れるやら。
お芳の父・辰五郎は、慶喜が置いて行った家康以来の「金扇馬印」を守り、陸路江戸へと向かっていたのです。
このお芳は、側室とされることもありますが、愛妾、お手付きといった表現もなされます。
正式に妻帯した女性ではなかったようですね。
明治以降、彼女は他の女性と同じく家に戻されました。
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