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【禁門の変(蛤御門の変)】
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巻き返しの機は熟したのか?
一方、長州藩不在の京都では、政治的混乱が続いていました。
確かに、将軍後見職・一橋慶喜と、優れた大名による合議政治(「参預会議」)は始まりました。
しかし、参加者たちの主張がぶつかり、まとまりを欠いてしまったのです。
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こうした状況を受け、
「今こそわしらの出番じゃないか!」
「いや、それは無謀、時期尚早じゃ!」
長州藩内から、巻き返しの声(進発派)とそれに対する反対論(慎重派)が噴出してきます。
結果、高杉と周布が失脚して、進発派が主導権を掌握。
しかし彼らが京都へ向かう直前に、衝撃的な事件が起こります。
【池田屋事件】です。
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事件のあらましを説明しますと、
【京都市街を放火して、長州へ孝明天皇をお連れしよう】
と考えていた主に長州の者たちが約30名、池田屋に潜んでおり、その情報を聞きつけた新選組が7名を斬殺、23名を捕縛したというものです。
近藤勇や沖田総司、永倉新八などのスターが揃っており、事件としては有名ですね。
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なお、幕末は【◯◯屋事件】がややこしくなるので、一応、以下に補足しておきますと……。
池田屋事件の影響は小さくありませんでした。
「池田屋事件」が「禁門の変」の引き金になったとする解釈もあり、その結果、明治維新を早めたとも言われています。
↓
◆禁門の変
というより
↓
◆池田屋事件
↓
◆禁門の変
こんな流れですね。
しかし、長州藩が計画していたという【天皇誘拐説】については、本当に存在したのか?ということを巡って諸説あり、現代の感覚を差し引いたとしても、無謀なプランに見えます。
さすがに本気で考えるワケがない――と思ってしまいますが、なにぶんこの時期、久坂玄瑞が主導した長州藩の尊皇攘夷は、過激の一言に尽きます。
長州藩進発派の上洛前夜に事件は起きており、無関係とは考えにくいのです。
【長州藩進発派が京都で何か物騒な準備をしている】
ということを新選組に察知された可能性は十分に考えられるでしょう。
さすがにその【何か】が【天皇の誘拐計画】とまでは気付かなかったかもしれませんが。
いずれにせよ、同事件で長州藩士は「松下村塾」出身の吉田稔麿ら、多くの犠牲者が出ました。
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この池田屋事件が起きたために、長州藩の進発計画は弔い合戦の様相も帯びてきたわけです。
「おのれ壬生狼め、この仇はきっと取っちゃるけぇな!」
そうヒートアップし、引き返せなくなった可能性は、十分に考えられます。
長州藩兵、上洛
運命の元治元年(1864年)6月15日。
長州藩進発派の中でも、過激な言動で知られる来島又兵衛が、遊撃隊300を率いて出立しました。
翌日には、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎も、三田尻を出航。
長州藩兵3千名は、伏見・嵯峨・山崎に着陣しました。
さて、長州藩は結構な数の兵を率いております。ただ嘆願するだけなら、こんなに多くの兵を連れて来なくてもよいと思うかもしれません。
要は、実戦を想定したものではなく、武力による揺さぶりをかけるためのものでした。
長州藩勢は、行く先々で彼らに同情的な大名や公卿に、正統性をアピールしました。
京都の民衆は、殺伐とした新選組と、その雇用主であり財布の紐が固い会津藩士らを嫌う一方、気前が良く粋な遊びっぷりをする長州藩士には、好意を抱いておりました。
こうした人々の同情や好意が背後にあれば、主張も通りやすいのではないか――そんな希望的観測もあったことでしょう。
しかし、政権を掌握する将軍後見職にして禁門守衛総督の一橋慶喜は冷たいものでした。
「武力を背景とした嘆願など、認めるわけにはいかん」
7月17日には、朝廷も長州に撤兵を通達。翌日、長州勢の指揮官たち20名ほどで、今後についての協議が行われます。
ここで、過激な来島と、慎重な久坂の間で、意見が割れてしまいました。
「朝廷は君側の奸(くんそくのかん・薩摩や会津らを指す)に操られちょる。奴らを取り除いてからでなけりゃあ、話にならん!」
「元々わしらは戦をしに来ちょるわけじゃない。世子(毛利元徳)率いる軍勢を待ってからでも遅うはないじゃろう」
「この卑怯者めが! 世子到着の前に奸を取り除かにゃあいかんたぁ思わんのか!」
久坂は、来島の激情に巻き込まれ、ついに武力による進撃が決定します。
「禁門の変」当日
18日夜半、3人の家老が兵を率いて京へ出立します。
そして大敗するのです。
伏見方面:福原越後元たけ(にんべん+間)が指揮、伏見街道で大垣藩兵によって撃退される
嵯峨方面:国司信濃親相が指揮し、蛤御門前で会津・薩摩藩兵により撃退される。来島又兵衛は戦死
山崎方面:益田右衛門介親施が指揮して、山崎方面へ出撃する。関白・鷹司輔煕邸裏門から御所突入を目指したものの、越前藩兵に阻まれ、寺島忠三郎、久坂玄瑞自刃、入江九一は戦死。真木和泉保臣は脱出後、天王山で抗戦後に自害した
一方的に敗れた彼らは、同志200名以上の屍を回収することもできないまま、脱出するしかありませんでした。
このとき九死に一生を得た桂小五郎(木戸孝允)は、但馬方面に脱出し、潜伏しております。
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戦闘の影響で、京都は大火「どんどん焼け」に見舞われ、公家邸はじめ約28,000戸の民家も焼失してしまいました。
出火原因は、ハッキリ特定されていません。
当時の京都の人々は長州藩士に同情的であり、会津藩士や新撰組隊士が敵を追い詰めるために放火したせいだ、と考えたかったようです。
ただ、市街地で火器を用いた戦闘をすれば、火災の発生は不可避でして。
特定の誰かが悪いとすることにはムリがあるような気がします。
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